面倒がられてしまう人の真実

未分類

よく耳にする話や、SNSで度々見かける「こんな人からは離れよう」という言葉、考え。

「こんな人」とは、例えば、悪口を言いふらしている人や、平気で人の気持ちを傷つける人。困ったことをしてくる人。いわゆる自分のことで精一杯で、周囲を疲れさせてしまったり、手に負えないと思わせる人を指していることが多いように思います。

今回は、こういった「こんな人」たちが置かれている状況や心境を想像しながら、「離れよう」という行動を促すことが、果たして私たちにどんな影響を与えるのかを考えていきたいと思います。

「こんな人」たちと、向き合い続けてきた人たち

私やあなたを困らせる「こんな人」たち。

自分勝手な振る舞いで、周囲を疲れさせてしまう人たち。

もう手に負えない…と、諦めさせるほどのパワーを持っている人たち。

今もなお、こういった人たちとの関わりのなかで、「一体どうしたらいいのだろう…」と途方に暮れている人もいることだと思う。私にも経験があるので、その疲弊感はなんとなく想像ができる。

どんな想いで、何を言ったところで、本人は受け止める気配がなく、口を開けば「お前が悪い」「あいつが悪い」「環境が悪い」と、いつも誰かの、何かのせいにしようとする。

ため息しか出ないだろう。うんざりして、失望するだろう。

「この人には何を言ってもムダなんだ…」
そのように感じても、なんら不思議ではない。

こういったことに疲れ果てた人たちが、自分の経験から得た教訓を発信したり、人の悩みに対してアドバイスをする時に「こんな人からは離れよう」と、言ってくれるのだと思う。

いくら、ボールを投げても受け取ってくれる気配がない。
投げていることがわかっているはずなのに、あえて無視する。
やっとボールを見てくれたと思ったのもつかの間、きつい速度で打ち返してくる。

だから、この人たちには、もう、できることはないのだと。
働きかけても無駄なのだと。
キャッチボールなんて夢のまた夢なのだと。

建設的な「キャッチボールコミュニケーション」とは
仕事や恋愛、家族関係、学校、SNS…様々なシーンで「人間関係」についてモヤモヤを抱えることがあると思いますが、なぜ、こういった悩みが発生するのでしょうか?「価値観が違う」「合わない」「嫌い」「なんとなくムカつく」など、モヤモヤの原因が起こる...

きっと、そう思ってしまうほど、私は、あなたは「こんな人」たちに、向き合ってきたのかもしれない。相当、がんばってきたのかもしれない。

だから、「こんな人からは離れよう」と、決断することも必要な時があるのだと思う。
自分の抱えられる範囲を超えたものは、自分の心を蝕んでしまったり、その抱えきれない苦しみを知らず知らずのうちに、周囲に発散することもあるから。そして、気づかないうちに、新たな苦しみを生むことにもなってしまいかねないから。

「受容力」のトリセツ
コミュニケーションにおいて「受け止める力」が、自分や他者との関係を潤滑にしてくれるという話をしました。この「受容力」についても、様々な見解があるように思います。「どこからどこまで、受け止めたらいいのか?」「受け止めたくないこともある」「全部...

いくら、人のあれこれまで受け容れることができる心の器を持っていたとしても、様々なものが入り込みすぎると、誰しも、キャパオーバーになるものだと思っている。

「もう、我慢の限界だ」

そう思ってしまうことに対して、自分を責めたりしないでほしい。
以前も、とある記事でお伝えしたが、「逃げることは逃げることではなく、立ち向かうことだから、生きるために生きながら逃げてほしい」と思っているのだ。

そういった大前提があるうえで、この先を読み進めていただきたい。

「こんな人」は、いつから「こんな人」になってしまったのか?

私やあなたを、とことん疲弊させてしまう「こんな人」たち。

ところで、そういった「こんな人たち」は、いつから「こんな人たち」になってしまったのだろうか?これを読んでくださっているあなたは、どう思うだろうか?

様々な見解があるだろうが、私が思うことをお伝えしたい。

誰しも、この世に誕生した瞬間というのは、まっさらな状態であると思っている。
なにかを恐れたり、不安がったり、憎んだり、意地悪したくなったり…
そういった恐怖に支配されることはなく、ただ、自分は自分であると思えていて、むしろ、生存本能としての「愛着欲求」である「愛し愛されたい」という、混じりけのない気持ちを正直に表現していると言えるのではないだろうか。

要するに、生まれたてのピュアな赤ちゃんが「お前が悪い」「あいつが悪い」「環境が悪い」そして、「自分が悪い」とは、到底思っているように見えないのだ。

「悪いって、なに?」「それよりも、抱っこして!」という感覚ではないだろうか?
実際に、赤ちゃんに聞いたことはないので、わからないのだが。

つまり、今この瞬間も、私やあなたを困らせる「こんな人」というのは、はじめから「こんな人」ではなかったということが言いたいのだ。

では、いつから「こんな人」は、「こんな人」と呼ばれるようになってしまったのだろうか。
いつから「こんな人」は、自分や周りを傷つけるようになってしまったのだろうか。

果たして、「こんな人」たちは、好き好んで「こんな人」たちになったのだろうか?

ノラ猫ちゃんのお話

ここで、いきなりだが、私の一人芝居を披露したい。

後ほどちゃんと解説するので、よろしければお付き合いいただきたい。

※心の傷が思い出される表現が含まれるため、無理な閲覧は避けていただき、ご自身の体調とご相談のうえ、大丈夫だと判断されたかたに限りお読みください。


よくわからないうちに、ボクは寒い場所にいた。お腹がすいている。
お母さんとはぐれてしまって、とても心細い。

何度も何度も、お母さんを呼んだ。
でも、声が枯れただけで、お母さんからの返事はない。

ひとりぼっちで歩いていると、大きな生き物が近づいてくる。
ボクを見て、なにかを言っている。
ひとりぼっちで寂しかったボクは、大きな生き物に近寄ってみた。

痛い!
よくわからないけれど、全身に激痛が走った。
どうして痛かったのかわからない。
でも、怖い。急いで逃げた。

大きな生き物は、痛くて怖いんだ。
ボクはそう思った。
もう、近寄るのはやめよう。
まだ、ひとりぼっちでいるほうが安全だ。

お腹もすいて、寒い。
怖いことがいつ起こるかわからないから、いつでも逃げられるようにしよう。
心細い気持ちで、ビクビクしながら毎日を過ごすことになった。

そんなある日、また、ボクの前に大きな生き物が現れた。

痛くて怖いのはイヤだ!逃げなきゃ!
必死に抵抗して、噛みついて、近寄るな!と牙をむく。

でも、大きな生き物の力には敵わず、ボクは捕まってしまった。
これから、どうなってしまうんだろう。
怖い、怖い、怖い…。

しばらくうずくまっていると、ポカポカした明るい場所に連れてこられた。
お母さんみたいな、ふかふかの温かいものにくるまれている。
何が起こっているのかわからなくて、ふるえるしかできない。

大きな生き物が、ボクに近寄ってきた。
なんだか、美味しいにおいがする。
お腹がペコペコなボクは、思わず美味しそうなにおいにつられそうになる。
でも、大きな生き物は痛くて怖いから、近寄っちゃダメだ!
気を抜いちゃダメだ!いつでも逃げられるようにしなきゃダメだ!

ボクはこわばったからだを目一杯動かして、大きな生き物に噛みつく。
これ以上、近づくな!!
でも、この大きな生き物は、ボクに何もやり返してこなかった。

どれくらい経ったのだろう。
あれから、ずっと、同じ場所にいる。
どうやらこの大きな生き物は、ボクに痛いことをしないみたいだ。
ボクが暴れても、噛みついても、痛いことをしないみたいだ。

ボクはお母さんみたいなふかふかのものに包まれていて、少し、安心している。
ちょっとだけ、美味しそうなにおいのする場所へ行ってみようかな。

ひとくち、美味しそうなにおいのするものを食べてみた。
お腹がペコペコだったボクは、気づけば、ぜんぶ平らげていた。

しばらくすると、大きな生き物が、ボクに近寄ってきた。
何を言っているかわからないけれど、やさしい声だと思った。
怖いけど、なんだか、ちょっとだけホッとする。

あれ…?この大きな生き物って、なんだか、お母さんみたいだ。
あの時、突然いなくなった、お母さんみたいだ。

今、ボクは、新しいお母さんと一緒に、お腹をお空に向けてお昼寝している。
ねえねえと声をかけたら、いつも、ヨシヨシしてくれる。
いつも、やさしい声をかけてくれる。
いつも、美味しいごはんをボクにくれる。

こんなに、温かくてやさしい場所があったんだ。
知らなかったな。

痛いことばかり、怖いことばかりだとあの時は思ってたけど。
そうじゃないことも、あったんだな。

あの時、ボクは、怖い気持ちでいっぱいになってた。
お母さんに、たくさんひどいことをしちゃったね。
怖い顔して、噛みついて、ごめんね。

でも、今は本当に幸せだよ。
お母さん、ありがとう。
ボクを見つけてくれて、やさしくしてくれて、ありがとう。

これからは、ボクも、お母さんを大切にするからね。
お母さんがたくさん笑ってくれるように、幸せにするからね。

あの時、助けてくれて、本当にありがとう。


ノラ猫ちゃんが、様々な心の傷を負いながら、必死に生き延びる姿。
「いつ傷つけられるかわからない」
そんな恐怖のなか、疑心暗鬼になりながら、身を守ることに必死になる姿。

本当は、温かくやさしい場所で、安心して過ごしたかったことに気づく姿。
やさしい安心をくれた人に、徐々に心を開いていく姿。
「ありがとうとごめんなさい」
そういった素直な気持ちに気づかせてくれた人を、幸せにしたいと思う姿。

これは、なにも、ノラ猫ちゃんに限った話ではないのである。
人間だって、同じなのだ。

一人芝居とは言ったが、これは芝居なんかではない。
今、この瞬間も、あらゆる場所で起こっている「現実」なのだ。

そして、実際のところ、特に人間同士においては、牙をむいてしまう人や面倒がられる人は、危ない人や困った人だと認識され、なかなか心の傷を理解されづらいという現状があるように思っている。

「牙をむくのは、怖がっているから」という理解

なぜ、自分たちより小さな生き物が必死に生きようとしている姿には心を痛めることができるのに、同じ人間同士では、それが難しくなるのだろうか?

生きること、死ぬこと、愛し愛されること、どの生き物も、変わらないはずなのに。

なぜなのだろう?私なりに考えてみたことを、共有したい。

「自分たちより小さな生き物」とは、「自分たちが守らねばならない」という意識にさせる。
決して強くない。か弱い存在だと知っているから、心を痛めることができるのではないだろうか?

では、人間同士、それも大人同士、子ども同士の場合は、どんな心境になるのだろう?
なぜ、怖がっている人をさらに怖がらせたり、腫れ物のように扱ったりするのだろうか?

そこには、ある種の「期待」が込められているように、私は思っている。
また、場合によっては「自分より立場が上」だと、思っているのではないだろうか?

「私はこれくらいのこと、当たり前のように出来るのだから、あいつが出来ないのが悪い」
「大人なんだから、これくらい言わなくてもわかるよね?」
「あの人はいつも強気で私を責めてくるから、私が悪いのかもしれない」
「いつも不機嫌で怖いから、巻き込まれないようにしなきゃ」

このように、「期待」するから歩み寄れない現実が生まれたり、「自分より立場が上」だと思っているから、威圧的な人は怖い人だと認識して、自分が悪い気がしてきたり、なるべく近寄らないように気を付けたりする。

けれど、本当は「一番怖がっているのは、怖がらせてくる人」なのかもしれない。
「一番、自分が良くないものだと思っているのは、責めてくる人自身」なのかもしれない。

大声で当たり散らしたり、悪口を言いまわったり、何を言っても誰かの何かのせいにして受け入れようとしない人は、自覚のあるなしに関わらず「自分を傷つけてくるものから身を守るために、これ以上責められないように、必死に、戦っている」とも考えられる。戦いながら、時にはボロボロになりながら、「助けてくれ」と、訴えているのかもしれない。

こういった人たちは、まさに「こんな人」と呼ばれる人たちに該当するのかもしれない。
つまり、「こんな人」を「こんな人」として扱い、「こんな人からは離れよう」と言っているうちは、「こんな人」は「こんな人」のまま、助けてもらえないまま、苦しんでいることになるのだろう。

そして、誰からも離れていかれる「こんな人」は、寂しさを持て余し、自分よりもか弱い存在を攻撃してしまうことがある。誰も、自分のことを必要としていないと感じ、絶望し、自暴自棄になってしまう。

それを、黙って、指をくわえて見ていてもいいのだろうか?
あの人もこの人も、どんな風に振舞っていようが、実のところは「寂しくて、悲しくて、苦しくて、怖い」と思っているのかもしれないのに。

前提が「強くあるべき」だから、「弱さ」を潰したくなる

「期待」することや「自分より上」だと思うことで、「できて当たり前」と思ってしまうという話をした。

しかしながら、実際のところ「できて当たり前」ではない人たちで溢れかえっている。
「できて当たり前」のことが、できていたら、こんなにも生きづらい現実はなかっただろうし、こんなにも問題が起こっていないはずだ。

「強くあるべきだ」という前提があるから、強くあらねばらならなくなった人たちの「弱さ」が、どこかへ封じられてしまう。「強くあらねばならない」というのが、常識になっているのだとしたら、「強くない自分はダメなんだ」と思う人が、たくさん現れることにもなる。

「強くあるべき」
「自立するべき」
「人にはやさしくするべき」

そういった空気感が、弱さをさらけ出しづらくさせ、助けてほしいと言い出しづらくさせ、人の目を過剰に気にするようにさせ、人にやさしくできない自分を責めさせることになってしまう。

でも、本当は、この「真逆」と言えることが、当たり前のように起こっているように感じる。

「弱くなってしまう時もある」
「依存してしまうこともある」
「人にやさしくできない時だってある」

精神的に弱い人はダメだとか、誰が言い出したのだろう?
依存することはよくないから自立しなさいと、誰が決めたのだろう?
人にやさしくできない人に目を光らせ、フルボッコにする風潮は、いつから生まれたのだろう?

誰しも、精神的に弱る時はあるだろう。
依存し合うなかで、愛が育まれることもあるはずだ。
人にやさしくできない自分を知ることで、自分にやさしくできるかもしれない。

そのように、前提を「人は、弱いものだ」と、すなおに認めることが必要だと思っている。
これは決して「お前は弱いな」と、自分や人をバカにするための考えではない。

あの人もこの人も、必死に強がっているけれど、実は「弱い生き物なのだ」と知ることで、必要以上に「期待」したり「自分より上」だと思う必要はなくなる。

年齢や、性別、立場、肩書き、これらはいっさい関係ない。

まっさらな「私」になる勇気
私は、心理カウンセラーになりたくて一心不乱に頑張っていた時期があります。でも、いつしか「心理カウンセラーでなければならない自分」に苦しんでいることに気づきました。「自分にできることで、社会貢献したい」そんなふうに、キラキラした想いを持ちなが...

いつも威張っている人は、実は小心者かもしれない。
いつも謙虚な人は、実は自信家かもしれない。

果たして「強さ」「弱さ」とは、一体なんなのだろうか。
「怖がらせる人」は、本当に「怖い人」なのだろうか。

「ありがとうとごめんなさい」が言えるようになるまで

ノラ猫ちゃんのお話にも登場したように、様々な心の傷を抱えてきた人が「この人は安全だ」と思えるようになるまで、個人差はあれど、少々、もしくは随分と、時間が必要なことが多い。

信用して心を開いたばかりに、裏切られたり酷い扱いを受けると、再び心を開くのが怖いと思うのも自然なことである。スイッチのオンオフのように、簡単に切り替えられるものではないのだ。

しかも、一度心の傷を負ってしまうと「また、怖いことが起こるのでは…」と思ってしまうことも多々あるので、たとえ第三者が些細だと思えるようなことでも、本人にとっては、過剰に「怖い!」と反応してしまうことがある。

その結果、周囲にとっては「この人を傷つけるつもりがなかった」と思えるようなことでも、本人の世界では「この人に傷つけられた」と、受け取ってしまうことがある。こういった事情で、警戒心を解いてもらうことが、なかなか難しいこともある。しかし、これは、仕方のないことなのだ。誰しも、危ないことから自分をしっかり守ってやりたい本能を、持っているのだから。

だから、辛抱強く、ゆっくりと時間をかけて「私は安全ですよ」と、繰り返し繰り返し、伝え続ける必要がある。「たくさん傷を負ってきて、辛かったんだね」と、寄り添う想いを向けながら、出来ることなら、ヨシヨシするくらいの気持ちで、関わってみてほしいのだ。

ここまで読んでくださっているかたには繰り返しになるが、念のためにお伝えしたい。これを行う対象は、私やあなたを威嚇したり、怖がらせたりする「こんな人」と呼ばれている人たちも、もちろん含まれている。

「えっ…。どうして、私を怖がらせてくる人にヨシヨシなんて、しなきゃいけないの?」

そんな声が聞こえてきそうだ。無理はない。私も同感である。
ここで、思い出してもらいたい話がある。

「受容力」のトリセツ
コミュニケーションにおいて「受け止める力」が、自分や他者との関係を潤滑にしてくれるという話をしました。この「受容力」についても、様々な見解があるように思います。「どこからどこまで、受け止めたらいいのか?」「受け止めたくないこともある」「全部...

結論からお伝えすると、これはもちろん「できる範囲」で構わないということなのだ。
受け止めきれないとか、受け止めたくないとか、どこまで受け止めたらいいの?とか、様々な疑問がわいてくるだろう。でも、それでいいのだと思っている。

「できるできない」は、その人の状況によって、どうしても「できたりできない」ことがある。
繰り返しになるが、「人にやさしくできない自分」がいても、いいのだと思っている。
そして、散々、その人や出来事と向き合い続けてきた自分自身を、しっかり、受け止めてあげてほしい。

しかし、「できるできない」より前の段階である、「知っていると知らない」については、知るきっかけがあれば「知っている」ことになる。何が起こっているのか理解が追い付かずに、「知らないためにそれをすることが困難になっている」のか、「知っているが抱えきれずに受け止めきれない」のかでは、意味が違ってくる。

だから、とにかく「知ること」が大切だと思っている。
知ることができると「理解」につながりやすいからだ。
理解につながると「
出来るかもしれない」に、結びつくことがあるかもしれない。

もちろん、出来る人が、出来る人に対して、出来る範囲で、やっていけばいいのだと思っている。なにも、自分ひとりで背負い込むことはないのだ。背負い込んで、自分が倒れてしまっては、どうにもならない。出来ることなら、周囲に助けを求めてもらいたい。助けを求めても大丈夫なのだと思える空気を、つくっていきたい。

ひとりでも多くの人が、「面倒がられる人の真実」を知ることで、ひとりで抱え込む人が少なくなる。この世界に存在している、なるべく多くの人が、なるべく多くの人に理解を示していくのだ。

だからこそ、ひとりでも多くの人が、「受容力」を養っていくことが必要だと思っている。
ひとりでも多くの人の「受け止める力」が高まると、必然的に、受け止めるものが分散されていくからだ。その目的のために、この話をしているということをご理解いただきたい。

私はあなたを傷つけない、私はあなたに傷つけられない

受け止める力とは、私はこのように捉えている。

「私はあなたを故意に傷つけたりしない」と宣言すると同時に、「私はあなたに傷つけられることを許さない」と、自分の世界をしっかりと守ることを心に決めることだ。心を開きながらも、土足で踏み荒らされることを決して許さない。

重たくてどっしりとした、意気込みが感じられるものであると思っている。

まるで「かかってこいや!」と言わんばかりの、気合いが感じられる。
やはり、受容力とは根性論に近いものがあるような気がする。個人的に。

かかってきた相手に、かかってきたまま攻撃し返すのではない。
かかってきた相手を怖がって、逃げ腰になるのでもない。
かかってきた相手の心情を理解し、「大丈夫よ!」と、力強く抱きしめてあげるのだ。

大丈夫。大丈夫。私は怖くない。
これを繰り返し、相手に伝えていくのだ。

すると、もしかしたら、少し先の未来に「あの時は本当にゴメン…」と、心から謝ってくれる日が来るかもしれない。「諦めずに関わり続けてくれて、本当にありがとう」と、心から感謝される日が来るかもしれない。「今度は、あなたのことをたくさん大事にするからね」と、心から約束してくれる日が来るかもしれない。

このように、それぞれの人間関係のなかで、小さくても確実な信頼関係を築いていくことが目標だ。
しかし、残念ながら、「ありがとうとごめんなさい」にたどり着かないことだってある。
無責任なことは言えない。
がんばっても、報われないことはあると思っている。

とは言え、選択肢が多いほうが、いいこともあるのではないだろうか。
「この人に、何を言っても無理だ…」と、途方に暮れている人がいたとしたら、「この人とはもうダメだ」という道と、「この人といつかわかり合える日が来るかもしれない」という道が、選べるようになるのだ。

やれるだけやってから、「こんな人とは離れよう」を選択しても、いいのかもしれない。
気の済むまで向き合ったなら、どんな結果になっても、ある程度納得できるかもしれない。

もちろん、各々の状況次第だと思っているので、私の言葉の全てを真に受けずに、身の危険を感じるようならば自分を守ることを最優先に考えていただきたい。そこから先は、それぞれの専門家にお任せすることが必要になることもある。

今回の話は、主に「身の危険を感じるほど暴れてしまう人になる前の段階」で、「専門家と呼ばれる人たちに辿り着くまでに私たち一人ひとりができること」として、どうにかできるものはどうにかしたいという話なのだ。

また、結果的に専門家にお任せすることになったとしても、「一体、なにが起こったのだろうか?」を考えるきっかけは必要だと思って、このような話をした。

だから、今現在、危ない目に遭っている人は、どうか逃げてほしい。逃げ方がわからないと思う人は、どうか、第三者に助けを求めてほしい。

そういった大前提があるうえで、「面倒がられる人の真実」は頭の片隅にでも置いておきたいし、どのような形であっても、助けてほしいと願う人が存在している以上、サポートの手を伸ばし合うことが必要なのだ。

誰しも、「こんな人」になってしまうことはある

これまで、「こんな人」の置かれている状況や心情を想像してみたが、いかがだっただろうか?
あの人やこの人の顔が、浮かんだかもしれない。

しかし、忘れてはならないことがあるのだ。
それは、「こんな人」というのは、いつ自分がなってもおかしくないということである。

そして、もしかすると、すでに「こんな人」に自分がなっていて、自分が気づかないうちに、誰かに「かかってこいや!」と、受け止めてもらっていることだってあるかもしれない。

それならまだいい。気づいていないだけで、受け止めてもらえているのだから。
そうではなく、自分が「こんな人」と呼ばれていて、受け止めてくれる人がいない人だって、いるのだから。そして、思いのほか、そういった人はたくさんいるのかもしれない。

これを、忘れてはならないのだと思っている。
だから、あの人もこの人も、自分自身も、人知れず辛さを抱えていることがあるかもしれないのだ。少々乱暴に、平たく言ってしまえば、「みんな一緒」なのである。

つまり、「こんな人からは離れよう」をみんなが実践してしまうと、自分から誰かが離れていくことも増えてしまうかもしれない。悲しい想いを、してしまう人が増えてしまうかもしれないのだ。

そんなのは寂しいし、水くさい。
いつ傷つけられるかわからずに、いつ騙されるかわからずに、ビクビクしながら暮らすなんて、まっぴらだ。「こんな人」だらけになってしまって、さらに、孤立する人ばかりになるなんて、辛すぎる。

だから、この逆をやりたいのだ。
いつも私が言っている「やさしい世界」を、創っていきたい。

「かかってこいや!」と、力強く受け止められる人が、たくさん増えてほしい。
すぐに実践することが難しい状況でも、まずは、その方法を多くの人に知ってもらいたいのだ。
何事も、「そうだったのか」と腹落ちしてから、能動的な「理解」を試み、具体的な動きが生まれるのだと思っている。

面倒がられる人というのは、面倒をかけても自分が受け容れられる体験を欲している。

経験者が、語ってみた。

私は人に面倒がられることもやってきたし、散々、面倒をかけられてもきた。
その結果、面倒がられてもいいじゃないかと、思えている。

むしろ、面倒がられる人ではない人とは、一体、どんな完璧超人なのだろう?と思っている。
程度の差はあれど、誰しも、面倒な部分を抱えて生きているのではないだろうか?

みんな面倒な部分を持っているのならば、隠し合ったり、重箱の隅をつつき合ったり、罵り合ったりするよりも、オープンにし合ったり、認め合ったり、フォローし合えるほうが、いいのではないだろうか。

こういった綺麗ごとは、結局のところ、自分自身をも楽にする。
「面倒な部分を見せてはいけない」という重圧から、少しは逃れられるかもしれないから。

自分にも、他者にもやさしくなれる「綺麗ごと」を、すなおに望んでもいいのではないだろうか?

私は、面倒がられていたとしても、受け止めてもらえる!
あなたの面倒な部分を、受け止めてあげる!

そんな気概を見せることができる人が増えていくように、これからも発信を続けていきたい。