「受容力」のトリセツ

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コミュニケーションにおいて「受け止める力」が、自分や他者との関係を潤滑にしてくれるという話をしました。

この「受容力」についても、様々な見解があるように思います。

「どこからどこまで、受け止めたらいいのか?」
「受け止めたくないこともある」
「全部受け止めていたら、しんどくなってしまう」

このように、思われるかたがいるかもしれません。
正直なところ、私にもわからないことだらけです。
わからないなりに、必要だと感じることをお伝えしているような感覚です。

そのため、今回は、この「受容力」の扱い方について、一緒にあれこれと考えていきましょう。

もしよろしければ、こちらも併せてご覧ください。

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「心の器」の柔軟性が、キャパシティーに作用する

理解不能だと思うくらいの、理不尽なことに出会った時。
自分自身に余裕がない時に、人の悩みを聞く機会があった時。

こういった状況の時に、いくら「受け止めることが大切ですよ」「理解を示しましょう」と言われても、「いやいや、無理ですよ」と言いたくなってしまうものだ。

こんなにも、しつこいくらいに「やさしい世界を創るためには理解を示すことが必要だ」と言い続けている私自身も、正直、「いやいや無理ですよ」と、思うことはある。

「なんだそれは…言ってることとやってることが違うじゃないか!」

そんな声が聞こえてきそうだ。
しかし、これは仕方がないことなのだ。
いくら「言い訳」だと思われようが、どうしようもない。

やさしい世界を創るための活動を行っているからと言って、カウンセリングの学びを経験してきたからと言って、私自身は、心を持っている、ただの人間なのだ。

肩書き、立場、レッテルありきで人を見ると、ついつい違和感を抱きやすくなる。
その、言語化しきれない気持ち悪さから、怒りに似た感情が湧いてくることがあるように思っている。
よろしければ、こちらもお読みいただきたい。

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どんな肩書きがあっても、どんな立場であっても、どんなレッテルを貼ったり貼られていても、結局は、情緒が揺れ動く、ひとりの人間であることに変わりはないのだ。
どうか、穏便に受け取っていただきたい。

このように、人それぞれ、現実的な状況や感情的な事情によって、その時々の「キャパシティー」というものが存在している。これは、すべての人間に共通することだと思っている。

ただし、そもそもの「心の容量」というのは、練習によって大きくふくらませることが出来ると思っている。別の言い方をすれば、「心が硬くなっていて膨らみにくい状態か、やわらかくて伸び縮みしやすい状態か」という、「柔軟性の程度」という観点で、表現できるだろう。

つまり、「心の器」を、しなやかに柔らかくする試みが「受容力を育てる」という考えなのだ。

話がごちゃごちゃしてきたように思うので、いったん整理したい。
受け止めきれないことが起こった時に、「心の中では何が起こっているのか?」をシンプルにお伝えすると、次のようなパターンがあるということだ。

心の器にある「水」が溜まりすぎて、いっぱいいっぱいになって溢れかえる 
心の器が硬くなり、伸び縮みしづらいために「水」が溜めづらい状態である

まずは、この「微妙な違い」について、受け取っていただけたら嬉しく思う。

弾力性・柔軟性を兼ね備えた「ストレッチハート」とは

置かれている状況によって、水を溜め切れなくなり溢れてしまうことは、人が人として生きている限り、避けることができないものであると思っている。

どうにもならないものをどうにかすることは、難しい。
そのため、まずは「どうにかなりそうなもの」に着目することにしよう。

それが、「伸び縮みしやすい心の器を育てる」ことなのである。

冒頭でも紹介したので繰り返しになるが、「受容力を育てる方法」について、あれこれ考えを綴っている、こちらも参考にしていただきたい。

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自分自身や他者に対して、なるべくたくさんの「理解」を示そうとすることで、「受容力」が養われていくという話をした。キャッチボールのような、「しっかり受け止めて、受け取りやすい形で投げ返す」というコミュニケーションを、自他ともに対して、地道に実践していこうという内容だ。

今回は、少し違った視点で、私やあなたの心を「ストレッチハート」に近づける方法を、考えていきたい。

まずは、先ほどお伝えした、この話を思い出していただきたい。

心の器が硬くなり、伸び縮みしづらいために「水」が溜めづらい状態である

これは、具体的に、どういった状態なのか。
皆さんは、どのように受け取ってくれただろうか?

私なりの考えでは、こういったことを表しているように思う。

「こうあるべき」「こうあらねば」という、凝り固まった思想や価値観によって可能性の幅が狭くなり、心の器が硬くなっている状態

つまり、「絶対にこうだ」「こうであるはずだ」という、限定的な思想や価値観が、他の可能性を考える余裕をなくしてしまい、受け容れるスペースを作りづらくさせているということなのだ。

逆に言えば、こういうことである。

「こうかもしれない」「こうだったとしたら」という、あらゆる可能性を視野に入れた物の見方をすることで、心の器が柔らかくなる

お察しのとおり、私は、ずうっと、同じことを言い続けているのだ。
いくら違う視点でお伝えしようが、結局のところ、言いたいことは限られている。

そう。「想像力を働かせること」や「理解を示すこと」について、繰り返し繰り返し、あの手この手で、お伝えしているのだ。

そのため、「ストレッチハート」に近づくための具体的な方法については、割愛しようと思う。
ぜひ、他の記事もお読みいただきたい。

代わりと言ってはなんだが、今回は、次のようなことに重点に置いて、話を進めたい。

「どうにもならないキャパシティー」の扱い方

先ほどまでお伝えしてきた「心の器の弾力性や柔軟性、そもそもの容量」とは別次元である、受け止めきれない「心の状態」を、どのように見ていくか?

心の器にある「水」が溜まりすぎて、いっぱいいっぱいになって溢れかえる 

いくら、様々なものを包み込むポテンシャルがある「ストレッチハート」を持っていたとしても、時と場合によっては、「もう無理!」と、投げ出したくなることだってある。

これは、単純に「ストレッチハート内に様々なものが入り込み過ぎている状態」であると言えよう。

私たち人間の心は、どうあがいても、無限の容量を手にすることは難しい。無理な話だ。

実際のところは、検証していないので正確なことはわからない。
それなのに、きっぱりと言い切ることにも、実は意味があるのだ。

ひとたび「無限の容量がある」ことを期待してしまうと、「そうなれない私やあなた」を、非難したくなってしまうから。それは、私の目的である「やさしい世界を創る」ことから、遠ざかってしまう。

だから、無理だと、諦めてしまうのだ。
目的のために「諦めないこと、諦めること」を、しっかり分けて考えたい。

ここまで読んでくださっているあなたは、もうお分かりだと思うが、念のため話を整理しておきたい。

諦めないキャパシティーは「想像力や理解によって育まれる、弾力性や柔軟性」
諦めるキャパシティーは「容量関係なく、ぎゅうぎゅう詰めになって抱えきれないもの」

すっきりさせたところで、次の話題に行きたい。
では、この「諦めるキャパシティー」を、どのように扱えばいいのだろうか?

受け止めてもらえない状況下で、ついつい自分や他者に不満を持ったり、責めたくなってしまうシーンを想像しながら、具体的に考えていこうと思う。

巷で言われている「器が小さい」の意味

日々の生活を送るなかで、また、SNSの書き込みのなかで、たびたび登場する「器が小さい」とか「器が大きい」という言葉。

皆さんは、どんな時に「器ちっさ!」と、言ってやりたくなるだろうか?
はたまた「私の器は小さくて…」と、謙遜したくなるだろうか?

ここまでの話を思い出しながら、この先を読み進めていただきたい。

例えば、こういった話を目にしたことがある。

「私は、心の器が小さいので、すぐにイライラしてしまうんです…」

これだけを見ると、このかたが「凝り固まった思想や価値観を持て余して心が硬くなっている」のか、「十分な心の柔らかさとキャパシティーを備えているのだが、いっぱいいっぱいになっている」のか、判断しきれない。

大事なのは「判断する」という事実確認ではないのだが、「どうしてそれで困っているのか?」を考えることによって、そのかたに伝えられる言葉が変わってくるのだ。

もし、このかたが「こんな器の小さい自分はダメなんだ…」と、自分を責めてしまっているとしたら、なるべく責めないでほしいと願ってしまう。自分を責めても、辛いだけだからだ。

そして、それほどまでに、自分を顧みることができる人であると想像できるため、実際のところはわからないにしても、後者の「いっぱいいっぱいになっている状態」である可能性が高い。

自分を顧みることのできる人は、あらゆる可能性を探索する力があると思っている。
同時に、他者の可能性をあれこれ想像できる人であるとも言える。
つまり、自分のことだけではなく、他者のあれこれまで、しょい込んでいるかもしれないのだ。

だから、この場合は「あなたの心の器が小さいのではなく、柔らかい器の中にたくさんたくさん抱え込んでいる状態だから、溢れかえったものがイライラになっているのかもしれない」と、考えるのだ。

よって、このかたに必要なことは「心の器を柔らかくすること」よりも「いっぱいいっぱいになった器をお掃除したり、不必要なものを外に出して軽くすること」なのだ。

逆に、こういったパターンもあるだろう。

「お前の器、ちっさいな!これくらいのこと、分かって当然だろ!イライラする!」

お察しのとおり、こちらは「べき論」によって心が硬くなっている状態が、うかがえる。

誰かに「器ちっさ!」と言ってしまいたくなる時、それは、自分の器が凝り固まっている時なのかもしれない。誰かを責めたくなる時というのは、可能性の幅が狭くなっている状態だと考えられるからだ。

ちなみに、これは「状態」であるから、誰しも「べき論」に支配される時があると思っている。
みんなそれぞれに、自分の正しさを抱えているからだ。

こういった状態になっているかたに対しては、「価値観や思想の拡がりを促進する」ことが、効果的ではないだろうか。
目的は、次のようなことである。

「価値観や思想が拡がることによって、人を責めたくなってしまう本人の心が楽になる」
「責められる人が辛い気持ちになるため、心の器を柔らかくして『受容力』を育ててもらう」
「自分のイライラを抱える練習をしてもらうことで、人のぶんまでイライラを抱え込む人を少なくする」
「イライラする人とさせる人が、やさしい世界で手を取り合えるようになる」

また、別の方向から考えた時に、こういった方法もあるように思う。
「思考をいったん横に置いておき、ハートを通して純粋な想いにアクセスするように促す」

「べき論」というのは頭の作業であるから、「本当のところはどうしたいのか?」という、すなおな感情とのバランスを取ることで、攻撃性が中和されるという考えである。

しかしながら、いくら効果的な方法を考えたとしても、ある課題が発生するのだ。

必要以上に自分を責めたり、人のぶんまでモヤモヤを抱え込む人というのは、そもそも「探索する力」が備わっているという話をしたが、逆に「自分で抱えることに慣れていない人」というのは、その必要性を自覚していないことも多いと思っている。

こういったことを「掃除」に例えて、あれこれお伝えしている記事があるので、よろしければこちらもお読みいただきたい。

助け合いの世界のつくり方
ひとりでも多くの人が、ひとりでも多くの人に対して、可能な限り「理解」というやさしい視線を向けることの必要性について、お伝えしてきました。今回は、こちらの意義や捉え方について深めていきたいと思います。がんばること、がんばらないこと、がんばって...

「必要性を感じない」ということは、カウンセリングなどのサービスにたどり着くことも少ないかもしれないし、自分をしっかり持っているぶん、人の意見に耳を傾けることが苦手な可能性もある。

では、こういった方々に対して、どのように「自分の世界を拡げてもらうための働きかけ」を、すればいいのだろうか。

繰り返し働きかけることでもたらされた「わかり合える関係」

私自身の過去の経験談を交えて、具体的な提案をしたい。

いわゆる、身近な人間関係において「キャッチボールコミュニケーション」をすることが困難な状況に立たされていた時に、私が実践したことが、こちらである。

わかり合いたい人に、わかり合えるまで、わかり合おうと、働きかけ続ける

実に、単純かつパッとしない内容である。

しかし、「これ以外にあるのだろうか?」と、大まじめに思っている。
他の方法を知っている人がいるなら、ぜひ、教えていただきたい。

自分で言っておきながら、なんとも、泥くさいことだ。
まさに「やればできる!」という、根性論である。

そして、「やってもできない」ことは、あるかもしれない。
なんとも理不尽で、想像するだけで心が痛くなる。

私自身、「やってもできない」ことの繰り返しだったからだ。
消えたくなるほど辛かったからだ。

これは、まるで「キャッチボールしたい相手にボールを投げ続けているのに、しっかり受け取ってもらえない」に相当することだと思っている。

投げても投げても、すぐに打ち返されたり、ボールを取ろうとしてくれる気配がない。
自分も投げるのが下手くそなもんだから、思いっきりぶつけて泣かれたり怒られたりする。
変なところに投げてしまい、ボールの存在にすら気づいてもらえないことだってある。

なんとも、骨の折れる作業だ。

だから、これを読んでくださっている全員に、これをやるべきだと言っているわけではないのだ。
得られるかわからないものに手を伸ばし続けるのは、しんどいことだから。
押し付けるのは、酷なことだと思っている。

しかし、やれることはやっておいてもいいのではないか?とも、思っている。
なによりも大切なのは「今の私に、どうさせてあげたいか?」ということなのだ。

「しんどいことだから、やらせてあげたくない」
「しんどいかもしれないけれど、やらせてあげたい」

これらの基準で、やるかやらないかを決めるのも、ひとつかもしれない。
繰り返しになるが、これは押し付けではないし、押し付けたくはない。
ご自身の状況や気持ちに合わせて、受け取らなかったり、受け取っていただきたい。

そういった前提があるうえで、読み進めてほしい。

「頭でっかちなキャパシティー論」と「愛情ありきの根性論」

この「わかってもらえるまで働きかけ続ける」話のポイントは、「わかり合いたい人に」という部分である。「誰それ構わず」で、なくてもいいのだ。

あなたが本当に「わかり合いたい」と望む人に対して、納得できるまで、しつこく働きかけ続けるということなのだ。

ここで、冒頭部分でお伝えしたことを振り返りたい。

「どこからどこまで、受け止めたらいいのか?」
「受け止めたくないこともある」
「全部受け止めていたら、しんどくなってしまう」

「受容力」について考えていく際に、こういった疑問が現れたが、それについての答えとなる部分が、これから話す内容に含まれているかもしれない。

これまで、やや頭でっかちに「心の器」という言葉や、捉え方についてあれこれお伝えしてきたが、結局のところ「感情論」に行きつくかもしれないということなのだ。

もちろん、やさしい世界を創るという目標のもと、自己理解や他者理解を深めるために、「みんな」である「私」それぞれが「諦めないキャパシティー」「諦めるキャパシティー」を、どのように扱うかについて考えることにも、意義があると思っている。

しかし、いくら「トリセツ」を読んだからといって、そもそも、その「対象」に興味関心を持てなければ、実践しようという気持ちにならないのも、これまた仕方のないことかもしれない。

つまりは、こういうことだ。

「第三者視点」で必要なのは「受容力のトリセツ」部分であり、「泥くさい根性論」の部分は「当事者同士」の話であると言えるだろう。

「頭でっかち」も「泥くさい根性論」も、両方、必要なのだ。
両方とも、これを読んでくださっているあなたに、届けたい。

「どこからどこまで受け止めるか?」は、各々の状況によって変わってくるだろう。

まずは、愛が持てる人や物事から、キャッチボールコミュニケーションである「理解を示す」「働きかける」を、地道に実践する。

そして、そこまで愛が持てない人や物事に対しては、「受容力のトリセツ」を参考に、ちょっとばかしの理解を示してみる。

そして、両者ともに共通するのは、次のようなことである。

自分の心の容量がいっぱいいっぱいになっていない時、余裕が持てる時から、はじめてもいい

これを、ひとりでも多くの人が、なるべく多くの人に実践するために必要なこと。

普段から、自分自身や他者との、温かいキャッチボールを練習しようとすること

その恩恵として得られるものは、こういったことだ。

ひとりで抱えきれないものを、それぞれが抱え合うことで、心の容量にスペースを空けておける

すると、こうなっていく。

余裕が生まれるので、そのぶん、受け止め合えることが、自ずと増えていく

この、やさしい循環を、私でありあなたが、作れるときにつくっていくのだ。

漠然としているものを、飲み込みやすいサイズに変換することの意義

「あれもこれも、それもしなくちゃならない」

このように考えると、それだけで、お腹いっぱいになってしまうものである。

みんなそれぞれに、目の前のことに忙しくて、誰かのことにまで構っていられないことだって当然あるだろう。まさに「自分のことで精一杯」なのである。

しかし、「自分のことで精一杯」と思っている時に、誰かから手を差し伸べられたら、ちょっとは楽にならないだろうか?そして、ちょっと楽になったぶん、誰かに手を差し伸べる余裕が生まれるかもしれない。

「あれもこれも、それも…」

このうちの、「あれ」「これ」「それ」を、分けてあげることによって、ちょっとばかし、ハードルが下がったりする。かもしれない。

できるところから、ちょっとずつ、やっていきたいものである。
私も、あなたも。