建設的な「キャッチボールコミュニケーション」とは

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仕事や恋愛、家族関係、学校、SNS…様々なシーンで「人間関係」についてモヤモヤを抱えることがあると思いますが、なぜ、こういった悩みが発生するのでしょうか?

「価値観が違う」「合わない」「嫌い」「なんとなくムカつく」など、モヤモヤの原因が起こるにはそれぞれに理由があるのだと思いますが、その理由をさらに分解していくと、ある大きな要因にたどり着くと、考えています。

結論からお伝えすると、あらゆる人間関係のモヤモヤは「コミュニケーションのもつれ」が原因となっているように思います。

今回は、「なぜコミュニケーションが上手くいかなくなるのか?」を考えながら、もつれてしまう理由にスポットを当て、それらを紐解いていくことによって得られるものについて、見ていきたいと思います。

「価値観の違い」の正体は、コミュニケーションのもつれ

「この人とは合わない」
「全然思っていることや考えていることが違う」
「関わっているだけでストレスだ」

このように思ったことはあるだろうか?
私はたくさんある。

「なぜ、そんな風に捉えてしまうのか?」
「なぜ、そんなことが出来てしまうのか?」
「なにを言っているのか、さっぱりわからない」

逆に、私も誰かからそんな風に思われていることがあるだろう。
お互いに、悪気はないのだが。

それぞれが「私の正しさ」と共に、生きている。
そして、「私の正しさ」というストライクゾーンに当てはまらない出来事に対し、違和感を持ったり嫌悪感を抱いたりする。

「ふつうは」こうするのに、どうしてこの人はしないんだろう?
「私だったら」こうするから、あなたもこうするべき!
「みんなが」こう言っているのに、この人は違うからおかしい!

つい、こんな風に思ってしまうことはないだろうか?
自分とは違うものと出会った時、気持ち悪さを感じたり、モヤモヤするのは自然なことだ。

また、逆に、偶然にも「私の正しさ」に近しい人は存在している。
そういった人のことを「気が合う人」「好感が持てる人」と言うのだろう。

しかし、「自分の正しさに近い人と出会えた」からといって、安心ばかりしていられないことがある。

「この人とはピッタリ合う」と思っていたのに、あるシーンでは「全く合わない」なんてことも起こりうるからだ。そして、「合うと思っていたのに、残念だ…」と、悲しむのである。
勝手に期待して盛り上がり、勝手にガッカリしてしまうのだ。

逆のパターンで考えると、「この人とは合わない」と思ってツンケンしていたけれど、実は自分と同じような痛みを抱えていたとか、ふとした瞬間に違う一面が見えて、印象が良くなることだってある。

また、「この人とは合う」と思っていたら、実は「合わせてくれていただけ」ということもある。
本当のところは、合わない部分も多いかもしれない。
「合わせてあげたい」という気持ちから歩み寄ってくれていたり、場合によっては「仕方なく」、合わせ上手な人が合わせてくれているから、なにも問題めいたことが起こらないのかもしれない。

「価値観の違い」というのは、どの部分を見たいか?見たくないか?という、非常に主観的なものであると思っている。同時に、見えているか?見えていないか?という、不確かなものとも言えるだろう。

つまり、「価値観が合わない」という考え方は、幻想に過ぎないかもしれないということなのだ。
もちろん、実際に「合う部分が多い人」「合わない部分が多い人」は、存在しているだろうが。

しかし、私たちはこういった幻想的なものに対しても、「この人は合わない人だから」とか「この人は合うよね」など、レッテル化してしまうクセがあるのではないだろうか?

以前、「肩書きや立場、レッテル」について、うんたらかんたらと考えを述べたが、もしよろしければこちらもご覧いただきたい。

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一度レッテルを貼ってしまうと、「この人はこうだから」と決めつけてしまって、他の要素を見る機会や余裕を奪ってしまいかねないと思っている。

本当は、見えているレッテルに留まらない「その人らしさ」が存在しているかもしれないのに。
勝手に決めつけられた側からすると、「わかった気になられても困る」と言いたくなるし、勝手にレッテルを貼ってしまった張本人にとっても、目の前の人を深く知るチャンスをなくしてしまうのは、非常にもったいないことだと思う。

だって、「合わない」と思っている人のなかにも「しっくりくるもの」があったほうが、嬉しくないだろうか?「わかる、わかる」と共感し合えると、心地よくないだろうか?

だから、「価値観が合わない」と勝手に決めつけるのではなく、「自分にしっくりくる価値観を見つけようとする」視点を持つことが、建設的なコミュニケーションの基本なのだ。少なくとも、私はそう思っている。

ちなみに、この考えは「相手を『自分にしっくりくる価値観の枠』にはめ込むこと」とは、まったくの別物である。それは、単なる押し付けであって、窮屈でしかない。

要するに、自分にとって都合のいいことを「期待」するのではなく、自分と相手にとって、「共存できる部分をたくさん見つけようとする試み」が、人間関係の悩みを和らげるために、一役買ってくれると思っているのだ。

「私はこうだから」「あの人はこうだから」
勝手に決めつけて、勝手に裏切られて、勝手にイライラしていないだろうか?

そして、そのイライラを、抱えきれずに、相手にぶつけていないだろうか?
むやみやたらに、正義の剣を振り回して、みんなの心を傷つけていないだろうか?

「本当は嫌だけど、私が合わせていれば丸く収まるから、それでいいんだ」
そのように、辛い気持ちを人知れず抱え込んでいないだろうか?
心を涙で濡らしていないだろうか?

職場で、学校で、恋人に対して、家族に対して、SNSの投稿に対して…

炎のドッジボールよりも、温かいキャッチボールをしよう!

「なんかヤダ!」「おかしい!」「ふつうじゃない!」

そんな風に、自分に生まれた違和感を、感じるままに、相手に、世界に、自分に、ぶつけてはいないだろうか?まるで、「えいや!」と相手めがけてボールをぶつけるドッジボールのように。

私は、ドッジボールそのものもあまり得意ではないのだが、決してドッジボールのことを悪く言いたいわけではないことを先にお伝えしたい。あくまでも、例え話として捉えていただきたい。

「お前とは合わない!」「気持ち悪い!」「どうしてこうしないの!」

こういった言葉は、威力が強くて、場合によっては、みんなの心を傷つけてしまう。
それだけではなく、先ほどからお伝えしている「コミュニケーションのもつれ」を加速させてしまうことにもなりかねない。「すれ違ったら交わらない」現実を呼んでしまい、望まない方向へ、歩を進めてしまうことにもなるのだ。

思いきりボールをぶつけられた相手は、痛い。
辛い。怖い。嫌だ。そんな気持ちになってしまう。

「どうしてわかってくれないの!」
「お前になにがわかる!」
「やられる前にやらなくては!」

このような想いや考えが生まれる背景には、攻撃に対する防御を取るために致し方なく反応せざるを得ない事情が潜んでいることがある。

誰しも、自分のことをしっかり守ってやりたい本能があるのだ。
皮肉にも、そのやさしい本能が、争いを生むことになってしまうとは。
なんとも切ないことである。

だから、まずは「争いの火種をむやみに作らないこと」が求められる。

一度、火がついてしまえば、「自分を守ってやりたい合戦」が、おっぱじまってしまうから。
戦うことに必死になっているうちに、気づけば、大炎上してしまうこともある。

そして、戦う人というのは、必ずしもボールを手に持っている人ばかりではない。
コート内で、ボールに当たらないように必死に逃げている人も、もちろん含まれている。

そんな中、「お前たち、もうやめろ!」と、止めに入る「火消し隊」もいるだろう。
しかし、大炎上しているものを消火するのは大変だし、燃え盛る炎に巻き込まれてしまうかもしれない。戦っている人も、止めに入る人も、それを見ている人も、みんな、辛いのだ。

だから、火種をなるべく作らないようにしたい。
まずは「なるべく」から、始めたいと思っている。

「絶対に」というのは、ハードルが高いことだから。
先ほどもお伝えしたように、炎上させてしまうのも、人の本能だから。

しかし、この「火種」を甘く見てはいけないのだ。
ちょっとぐらい…と思ってやったことが、大きな傷を生むことだってあるのだから。

あの時は、確かに「ちょっとぐらい」の規模だったかもしれない。
しかし、その「ちょっとぐらい」に傷ついた人が、また「ちょっとぐらい」火種をまき散らして、そうやって、どんどん規模が大きくなる。

そして、「ちょっとぐらい」の争いに、直接関係していない人までも、その影響を受けることがある。もちろん、「ちょっとぐらいいいだろう」と思っていた自分自身にも、どこかから飛んできた火の粉を浴びることがあるだろう。「自分がやったことが返ってくる」と言われている意味は、こういったことにあると私は捉えている。

要するに、火の粉をまき散らす人が増えれば増えるほど、とばっちりを食らう人が増えてしまうということなのだ。そして、それが新たな「とばっちり」を生んでしまう。

辛い人しか生まず、生産的ではないことは、もうやめたい。やめにしてほしい。
「自分を守ってやりたい本能」と、もっと上手にコミュニケーションを取りたいのだ。

その具体的な実践が、「温かいキャッチボール」なのである。

しっかり受け止めたあと、相手が受け取りやすいものを、相手が受け取りやすい場所に、相手が受け取りやすい速度で、やさしく投げてあげるのだ。これは、言うまでもなく、建設的な取り組みである。

ぜひ、ひとりでも多くの人に実践していただきたいので、私なりに考えた方法を共有したい。

自己理解、他者理解は「練習」によって上達する

「ぶつけるのではない」「逃げ惑うのではない」

第三の選択肢である「温かなキャッチボール」という実践。

結論からお伝えすると、これは「自分にも他者にもやさしくする」ことなのである。
よく使われている耳タコな言葉だが、私なりの解釈をお伝えしたい。

ドッジボールコミュニケーションが、ちょっと過激な試みであるのに対し、キャッチボールコミュニケーションは、まさに「自己理解」「他者理解」のための「練習」であると言えよう。

結果ではない。「練習」だ。
これまでもしつこく言い続けていることだが、結果を先に求めるのではなく、とにかく小さなことから実践することが大切なのだ。

練習したことは、身についてくるものだから。
もちろん、個人差はある。どんなことにも、人それぞれに得意不得意があるものだ。
でも、練習したかどうか?によって、もたらされる結果が変わってくるのも、事実なのだ。

だから、ぜひ、諦めないで「練習」してほしいのだ。
私を含めた、すべての人間に、この練習が必要だと思っている。

目的は、もちろん「やさしい世界を創るため」である。

この「練習」の本質的な意味が、「受け止め力を高める」ことだと思っている。
投げ返し方を考えるのは、次の段階だ。

つまり、ドッジボールのように、ぶつけたり逃げたりもしなければ、野球で例えると、キャッチャーのように一方的に受け止め続けるわけでもなく、バッターのように、すぐに打ち返すわけでもないということなのだ。

もちろん、キャッチャーはピッチャーにサインを出して意思表示を行っているし、バッターは意図的にボールを打ち返しているので、各々の役割に沿ったコミュニケーションが発生している。野球に詳しくない素人なりに、そう認識している。

あくまでも、温かなコミュニケーションの基本として、「しっかり受け止めて、受け取りやすい形で投げ返す」ことが大切だということをお伝えしたくて、この例え話をした。穏便に受け取っていただきたい。

では、優しいキャッチボールを行うための第一段階にあたる「しっかり受け止める」ことについて、具体的な話をしていきたい。

「まずは受け止める」という、受容力の育て方

「受容力」とは、一体、どんなことを指しているのだろうか?
様々な見解があるだろうが、私が思うのは、こういったことである。

「受け止めきれないものを抱える力」

冒頭でお伝えした話を、例に挙げて説明したい。
自分とは違った価値観にふれた時、すぐに暴れたり無理に飲み込んだりすることではなく、まずは「これは一体、どういうことなのだろう?」と、ワンクッション置くことができる力。これが「受容力」であると考えている。

では、この「受容力」は、どのようにして育んでいけるのだろうか?

その答えは、何回も何回も、お腹いっぱいになるほど言い続けている「理解」だ。

もう、わかった。ちゃんと理解した。
そんな風に思っているあなたに、しつこいと思われながらもお伝えしたい。

理解とは、心でするものだと思っている。
だから、繰り返し繰り返し、心に染み込ませながら、なじませていくことが大切なのだ。
どうか、ご理解いただきたい。

同じ話をしていることにも、実は、ちゃんと意味があるのだ。
私のコミュニケーションの意図は、そこにある。

「理解」については、他の記事でもしつこく言い続けているので、ぜひ、ご覧いただけると嬉しい。

うん、うん…
もう聞き飽きたけど、あなたはそれだけ「理解」が重要だと思っているのね。
しょうがないから、聞いてあげてもいいよ。

おわかりだろうか?

ちょっぴりうんざりしながらも、「この人は一体なにが言いたいんだろう?」「どうしてそれが重要だと思っているんだろう?」と、想像力を働かせること。

そう。これこそが「受容力」なのだ。

今、私に対して実践してくれた、「ちょっとばかしの忍耐」が、あなたの受容力を育ててくれている。
もしかすると、ちょっとばかしではないかもしれないが…
聞いてくださって、どうもありがとう。

こういった実践の積み重ねで、心の器がどんどん成長すると思っている。

あらゆるシーンで、あらゆる人に対して、「ちょっとばかし」からでも構わないから、受容力を養う経験を増やしていきたい。私も、これを見てくださっている、あなたも。
もちろん、あなたと関わりを持っている、あの人たちも、だ。

面倒なことや、うんざりすることに、あえて飛び込んでみるのだ。
そして「この人は、こうなんだな」と、知ってみようとすることなのだ。

まずは、その人や出来事に対して「愛」を持てるものから、始めるのもいい。
イヤイヤだと、続かないからだ。

そして、徐々に心の器が育ってきたら、愛が持てないものに対しても、ちょっとばかしの忍耐を発揮してもらいたい。そうやって、少しずつ積み上げることが大切なのだ。

そして、忘れてはならないことがある。
この実践は、他者に対してだけではない。自分に対しても行っていくのだ。

「私はこんなこともできないダメ人間だ」
「もっとこうしなきゃいけないのに、どうして私はできないの?」

もし、こんな風に思ってしまう人がいたとしたら。
まずは、自分に対して「受容力」を発揮していただきたい。

以前、「自分の中にあるものをたくさん知っているほど、他者や物事に対してもたくさんの要素を見つけることが出来る」という話をした。

「私ってこうだから」と自分が思っている以上に、「私」の要素はたくさんあると信じることで、見えるようになる「私の一面」があるということなのだ。いろんな角度から、いろんな視点で、いろんな「私」を見つけてあげるのだ。

どうか、受け容れやすい私だけではなく「受け容れ難い私」も、見てあげてほしい。
「受け容れ難い私」は、あなたに見つけてもらいたがっているかもしれないから。

「受け容れ難い」と言われるくらいには、見たくないものかもしれない。見るのが怖いと思うかもしれない。ひとりで見るのがためらわれる時は、ぜひ、他の人のサポートに手を伸ばしてほしい。一緒に、あなたの世界を広げてくれる、心強い味方を見つけてほしいのだ。

しかし、そもそも「心強い味方」を見つけることが難しく思うことも、あるかもしれない。
何を隠そう、私がそうだったからだ。
他者に、自分の柔らかい部分をさらけ出すのは、勇気の必要なことだから。

そんな時は、まず、「自分自身と温かなキャッチボールをする」ことを、心掛けていただきたい。
具体的な方法は、それを実践「しようとすること」だと思っている。

巷であふれかえる「答え」が、あなたの答えとは限らない。
外側にある答えを求めるほど、わけがわからなくなることもある。
だから、個人的には「方法論ではない」と思っているのだ。

あくまでも、外側の情報は「参考程度」に留めながら、自分なりにやってみようとすることが、結果的に「私の答え」になると思っている。

「私は私と、温かなキャッチボールをしたい」
そう思って、自分に関わってみることこそが、愛あるキャッチボールなのだ。

自分をたくさん受け止めてあげることができると、自然と「相手を受け止める」ことも、上達していたりする。自分にあるものを相手に見つけると、安心するからだ。

そのように、地道にコツコツと取り組む過程が、自分の世界を大きくしてくれる。
それが「受容力」を育てる方法だと、私は思っている。

決して綺麗なものばかりではなく、面倒で、うんざりすることもあるかもしれない。
しかし、その目的は「自分や他者と、心地よい関係を築くため」なのだ。
そのために、泥くさい段階を踏むことが、必要なこともある。

「自分とのコミュニケーション」「他者とのコミュニケーション」
両輪で、少しずつ、建設的に「やさしい泥くささ」を経験していきたいものだ。

ちなみに、第二段階である「やさしく投げ返す」ことについてだが、これは、実際のところ「しっかり受け止める」を行うことで、大目に見てもらえることも多いと思っている。

変なところに投げられてしまっても、しっかり受け止めてくれた相手に対しては「いいよ、いいよ」と、言いたくならないだろうか?

そのため、まずは「しっかり受け止める」ことに集中してもらいたいのだ。
「やさしく投げ返す」については、別の機会に話すことがあるかもしれない。

泥くさい実践によって得られる「やさしさの循環」

泥くさく、やさしいコミュニケーションの実践が、あなたの人間関係にどんな影響を与えるのか?

例えば、こういった嬉しいことが起こりうる。

「困っている時に『助けて』と言えることができて、手を差し伸べてもらえた」
「『助けてくれてありがとう』と言われて、温かく誇らしい気持ちになれた」
「気の合う人に囲まれて、私は幸せ者だと思えている」

これらは、まさに「綺麗ごと」と言えるような、ハッピーな展開である。
こうなれたらとっても嬉しいし、キャッチボールコミュニケーションの練習をするのは「やさしい世界を創るため」であるから、それに近づくことが目標ではある。

しかしながら現実は、そう簡単に、自分の都合のいいように物事が運ぶことばかりではない。

残念なことに、「助けて」と言っても助けてくれることばかりではないし、助けてと言えない状況の人もいるだろう。助け方がわからなくて、手を引っ込めてしまう人もいるだろう。
気の合わない人たちに囲まれて、大変な想いをしている人だって、いるだろう。

いわゆる「幸せイメージの中で生きること」も、自分を幸せにする方法のひとつである。
しかし、それは「現実を見ずに」お花畑を夢見ることとは別物であると、個人的には思っているのだ。

私は、泥まみれになりながらここまで生きてきた人間だから、そのように思っている。
そして、私の他にも、今、この瞬間に「お花畑で生きられたらどれだけいいだろう」と、想いながら生きているかたがいるという現実がある。

現実に目を背けたい時もあるし、それが必要な時もある。
いつも直視していられないのだ。ごまかさないと、やってられない時がある。
でも、背けながらも、見れる時は見たい。

ひとりでも多くの人が、そのように、「自分事として」「自分たちの幸せについて」真剣に考える機会を持つことを願っている。

話を戻すが、このように、思うようにいかないことがある現実にぶち当たった時や、見るのが辛い現実に遭遇した時こそ、キャッチボールコミュニケーションの練習をするきっかけが与えられているとも言える。そして、もちろん、練習の成果を見せてやる時でもある。

ただし、いつもいつも、やらなくていいのだ。
手にマメができたり、擦り傷が痛んで、がんばれない時だってある。
ちゃんと休憩して、余裕が生まれてからでも遅くはないと思っている。

上手くなるために練習しているのだから、初めから涼しい顔でスマートに実践できるわけではない。
上手くなる過程では、たくさん転んでケガをしたり、泣いたり怒ったり、泣かせたり怒らせたりするだろう。泥まみれになるだろう。辛い気持ちも味わうかもしれない。

だから、がんばり続けなくてもいいのだ。
無理なく、ボチボチと継続できる方が、実りがある。

そんな風に、休みを入れながらも繰り返し繰り返し、練習を重ねているうちに、「上手くできた」瞬間がやってくる。その希望の光を頼りに、さらに、経験のなかで得たものを磨いていくのだ。
そして、気づけば「前より、上手くやれるようになっていた」が訪れるのである。

前より上手くやれるようになったなら、必要以上に傷だらけになることも少なくなるだろう。
そしてさらに、キャッチボールに慣れていない人のサポートだって出来てしまうのだ。

苦労しながらも練習した経験、泥まみれの自分と共に歩んだ経験こそ、あなたに自信と力を与えてくれる。ピンチをチャンスに変えて、自分を「本当に望んでいる場所」へと導いてくれる。
そしてその恩恵は、あなた一人ではなく、周りにいる人にも笑顔を運んでくれるのだ。

まさに「練習こそが結果」と言えるし、その結果、キャッチボールが上手い人が増えていく。
すると、傷だらけになる人も、少なくなるのだ。
それを、この世界にいる人たちが一丸となって、やっていくのだ。

なんとも盛大な綺麗ごとのように思える。
しかしこれは、綺麗ごとが起こる過程を説明したに過ぎない。
綺麗ごととは、綺麗ごとではないのだ。泥くさい、地道な実践なのだ。

このようにして、ひとりでも多くの人の「心の器」を育てることにより、安心してキャッチボールができる「練習場」を多く創り出すことができる。失敗しても受け止めてもらえるという安心感が、さらなる大きな安心を生み、やさしい循環を生むことになると確信している。

一人ひとりが、目の前の出来事に対応できることが増えていくのと同時に、やさしいキャッチボールができる人に囲まれる機会も、増えていくのだ。

そういった「やさしい取り組み」「やさしい循環」が、あなたの人間関係の悩みを和らげてくれることだろう。

おわりに

具体的な練習光景については、各々のテーマごとに、別の機会にお伝えしたい。

今回は、「建設的なキャッチボールコミュニケーション」に必要な「受容力」を、どのようにして育んでいくか?その恩恵について、大枠の部分を受け取っていただけたなら嬉しい。

「コミュニケーション」
実に、壮大なテーマであると感じる。
あらゆる角度から、紐解いていくことが可能だと思っている。

一人ひとり、それぞれに様々な思惑があって、心の傷を抱えていて、大事にしたい想いや、こだわりがある。それらが交錯するのだから、もつれない方が難しいに決まっている。

そのぶん、やりがいがあるし、やれたぶん、得られるものも大きい。
そのように思っている。

自分自身との関係、他者との関係。
どちらも、大切にしたいものである。