まっさらな「私」になる勇気

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私は、心理カウンセラーになりたくて一心不乱に頑張っていた時期があります。
でも、いつしか「心理カウンセラーでなければならない自分」に苦しんでいることに気づきました。

「自分にできることで、社会貢献したい」

そんなふうに、キラキラした想いを持ちながらスタートさせたことだったはず。
この時、私は、まぎれもなく「私」だったと思うのです。

それなのに、いったい何が起こったのでしょうか。
言語化できないモヤモヤを抱えながら頑張り続けていたけれど、いつしか限界が来てしまう。

当時の私は「肩書き」と「私」を、くっつけてしまっていたのだと、今ならよくわかります。

どうして、くっつけてしまっていたのだろう?

本当は、ただ、私であるだけでよかったのに。
そのうえで、肩書きを身につけるだけでよかったはずなのに。

「肩書き」にこだわりたくなる理由

「私は○○です」

こんな風に、自分を証明する「なにか」が、重要視されているような気がする。

「あなたは何者ですか?」

そんな風に、問うのが当然のことのようになっている気がする。

だから、肩書きを用意しなきゃいけない。
私を証明する、確固たるものが必要だ。
それがないと、認めてもらえない。

そうやって、自分を「型」や「枠」に、はめてしまうのだろう。

なにも、肩書きの存在を否定したいわけじゃない。
肩書きによって、相手に安心感を与えることがある。
肩書きが、自分を守ってくれることがある。

「肩書き」とは、「自分が取り組んできたものを証明するもの」であり、「自分の功績が目に見える形となったもの」でもあるのだろう。

だから、それにこだわることがダメだとか、言いたいわけではない。
むしろ「素晴らしいもの」なのだと思う。

大事なことは、肩書きという言葉なのではなく、「自分は肩書きをどのように捉え、扱っているか?」の部分であると思っている。

私はあの時、確かに「肩書き」に苦しめられていた。
私は、どうして「素晴らしいものであるはずの肩書き」を上手く扱えなかったのだろう。

自分自身と同一化してしまうほどの情熱やこだわりがあるからこそ、肩書きと私を同一視してしまう。

それが、私が心理カウンセラーになろうとして苦しくなってしまった理由だ。

肩書きを、自分や誰かをしんどくさせるものとして、使っていないだろうか?
心当たりのあるかたは、ぜひ、この先も読み進めてほしい。

当たり前のように使っている言葉を、再考する

「だから」「なのに」

これらは、まさに、肩書きを盾に自分の考えや想いを押し付けたい時に使う言葉のように感じている。

カウンセラーだから、こうしなければいけない。
母親だから、こうでなければならない。
先生だから、こうであるはずだ。
カウンセラーなのに、どうしてこうしないの?
母親なのに、どうしてできないの?
先生なのに、こんなことを言ってもいいの?

こうやって、自分を、誰かを、窮屈に縛ってしまう。
自分や誰かを、まるで責めているような雰囲気になってしまう。

そして、時には「誰かを従わせたくなる時」にも、こういった表現が使われることもありそうだ。

「私は○○だから、○○してもらって当然でしょう」
「私は○○なのに、○○しないのはおかしい」

果たして、「だから」「なのに」は、人を幸せにするのだろうか?

これを扱っている人間に対してお伝えしていることなのだが、ここまで「だから」や「なのに」という言葉をよくないものとして表現するのは、なんだか申し訳ない気持ちになってくる。

この言葉に対してなんの恨みもないのだが、私は、これらの言葉によって、幸せな気持ちになれなかったし、なれそうもないのだ。

ある意味、安心はするかもしれない。
自分ではない「なにか」が、自分の代わりに、自分や誰かに窮屈な想いをさせられないように、責められないように、守ってくれるから。

まるで「硬くて重い、鎧」をまとっているような。

けれど、私にとって、それは硬すぎたし重すぎたのである。
私は、そんなことがしたかったのではなかったのだ。

これは、あくまでも「私」の感覚だ。
他の人が、この感覚に当てはまるとは限らない。

硬くて重たい鎧を脱いだ私が、率直に感じたことだ。

「だからといって」「なのだとしても」のほうが優しい

「だから」「なのに」が、少々とげのある雰囲気をまとっているのに対し、「だからといって」「なのだとしても」は、どこか余裕や余白が感じられて、なんだかホッとする。個人的に。

私がしつこく言い続けている「理解」からの「やさしい世界」へ向かうためにも、一役買ってくれそうな言葉たちだ。

試しに、例を挙げてみようと思う。

カウンセラーだからといって、必要以上に気を張らなくても大丈夫。
母親だからといって、笑っていられない時があっても構わない。
先生だからといって、いつも正しいことばかり言わなくてもいい。

なんとなく、安堵しないだろうか?
なんだ、私も一人の人間なのだから、いつも気を張ったり完璧でいたり、正しいことばかり言ったりやったりできなくてもいいよね。そんな時もあるよね。と。

カウンセラーなのだとしても、ひとりの人間であることに変わりはない。
母親なのだとしても、ひとりの人間としての感情がある。
先生なのだとしても、ひとりの人間としての考えを持っている。

これらは、まるで「肩書き」という「硬くて重たい鎧」を、するりと脱がしてくれる言葉だ。

なんだ、私はただ、私であったんだ。
何者かにならなくても、私であるだけでいいんだ。

「私は私なのだ」

これを、思い出させてくれる。心が軽くなる。気持ちがほぐれる。

私は今、自分のことをこのように思っている。
私は私である。
肩書きを背負いすぎなくても、ただ、私にやれることをやるだけでいいと。

このように思えるようになると、不思議と、相手や周りにも同じような感覚を抱く。

「私もあなたも、ただ、同じ心を持つ、人間なのだ」

「であろうが」という、お互いさまの気持ち

目線が限りなく近づいたところで、さらに、もう一歩。

カウンセラーであろうが、クライアントであろうが、傷つきやすい心を抱えている人間に変わりはない。カウンセラーであろうが、クライアントであろうが、落ち込む時や怠けたい時がある。
母親であろうが、子どもであろうが、共に成長しながら生活している。母親であろうが、子どもであろうが、上手くやれない時があるのも自然なことだ。
先生であろうが、生徒であろうが、共に教えながら学んでいる。先生であろうが、生徒であろうが、適切な行動ばかりとれないこともある。

「だろうが」は、まさに、「すっぽんぽん」になった私とあなたを、やさしく包み込んでくれる言葉だ。「ありのまま」とか「そのままでいい」とは、こういったことを指すように思っている。
まるで、「そのままの私とそのままのあなたが、手を取り合っている」ようでもある。

ここで、誤解のないようにお伝えしたいことがある。

もちろん、「肩書きに関係なく」やっていいことと、そうではないことがある。
なんでもかんでも許すというわけではない。

つまるところ、「ひとりの心を持つ人間として、どのように生きるか?」ということなのかもしれない。果たして、肩書きとは、一体何なのだろう。ますますわからなくなる。

世の中に存在する、様々な「決めつけ」

「カウンセラー、母親、先生」

これらを例として、言葉の意味を考えてきたが、もちろんその他にも「決めつけ」となっている言葉や表現が存在している。

肩書きだけではなく、立場やレッテルもそれに含まれるだろう。

立場とは、例えば「強い人と弱い人」とか「ポジティブな人とネガティブな人」とか、「助ける人と助けられる人」など、いわゆる二極化された表現を指すように思っている。

レッテルとは、「私ってこうだから」とか「あなたってこうでしょ」とか、他の可能性を考える余白が与えられないような、窮屈さがあるものだと思っている。

立場は、その漢字の意味をそのまま考えるに「立っている場所」ということなのだとしたら、一瞬で移動したり、できてしまうものである。

そんな、流動性のある「立場」を、時として「レッテル化」していないだろうか?
自分自身や、誰かに。

私は強いから、弱い人の気持ちがわからない。
私は弱いから、強くならなければいけない。
私はポジティブだから、落ち込むことなんてほとんどない。
私はネガティブだから、前向きに考えられるようにならなきゃ。
私はいつも助けてばかりだから、感謝されるべきだ。
私はいつも助けられてばかりだから、申し訳ない気がする。

しかし、これらは一瞬のうちに反転する。
いとも簡単に、レッテルが貼り替わるのだ。

いくら強がっていても、弱みを見せたくなる時があるだろう。
いつもポジティブシンキングに努めていても、クヨクヨと悩む時はあるだろう。
人を助けているようで、そんな自分が助けられていることがあるだろう。
いくら弱い人だと言われても、それが強さをつくってくれることもあるだろう。
いつもネガティブ思考だと思っていたけれど、希望を持っていることの裏返しだろう。
人に助けてもらっていると思いながらも、誰かを助けていることがあるだろう。

「立場」にこだわることや、「レッテル」を貼ることが、なんとも滑稽に思えてくる。
結局、一緒のものなのに。

「今、どちらが見えやすくなっているか?」という、あくまでも「状態」なのであって、結局は、両方あるはずなのに。
「今、どちらを見たいのか?」という、自分が見たいものを見ているだけなのに。

どうして、そうまでして、肩書きや立場、レッテルにこだわるのだろうか。
一体、なんのために。

肩書き、立場、レッテルを取っ払うと見えるもの

もちろん、「どの傾向が自分には強く出ているか?」や、「自分はどんな状態に傾きやすいか?」というのは、存在しているように思う。

だから、「全員がまるまる一緒」ということは、ないのだと思う。
それが、「個性」なのだと思っている。良いとか悪いとかではなく。

心理テストや性格診断も、そういったことを基準にタイプ分けがつくられている。

ここで、「肩書き」「立場」「レッテル」の意味を、もう一度、考えてみたい。
なんのために、これらが存在しているのだろうか?

様々な解釈があるだろうが、私なりの考えは、次のようなことである。

「自分や誰かを知る試み」というのは、「自己理解や他者理解」の先にある「やさしい世界をつくること」が目的なのであって、勝手に決めつけて納得したり、自分や相手を責めたりするためのものでは決してない。可能性の幅を、狭めるものではないのだ。

そうであっては、ならないのだ。

自分を深く理解することで、自分のなかにある多様性を知ることになる。
その多様性が、相手への理解へとつながるのだ。

自分のなかにあるものが多ければ多いほど、他者のなかにあるものを見つけやすくなる。
すると、やさしい世界に欠かせない「受容と共感、理解」を示しやすくなるのだ。

心理テストやカウンセリング、占い、そういった「自分や誰かを深く知る」ためのものが存在している意義は、こういうところにあるのだと思っている。

肩書き、立場、レッテルである「自分とはこういった人間だ」という主張や、あり方。
それを表現している「その人の想いそのもの」にふれていくのだ。

なんでも「目的」が大事なのだ。
なにをやるか?は、そこまで重要ではない。

逆に、「なにをやるか?」にこだわりすぎるあまり、「目的」を見失うこともあるかもしれない。
「なにをやるか?」を重視しすぎて、「目的」からかけ離れてしまうことがあるかもしれない。

そして、「なにをやるか?」に囚われているうちに、目的がすり替わる時があるかもしれない。
自分たちが気づかないうちに、いとも簡単に、都合よくすり替わっていることがある。

私を含めたすべての人に対して、留意をうながしているのだ。
誰しも、「うっかり」やってしまうことだから。

うっかりやってしまったと気づけたら、そっと、元の位置に戻ってきたらいい。
大事なのは「すなおに認めること」なのだ。

こだわりに気づき、すなおな「私」になれたあと

自分や誰かに、なにかを強いたくなった時、この話を思い出してほしい。

「私は一体、なににこだわっているのだろう」
「私は一体、なんのためにこれをしようとしているのだろう」

そのように、自分に問いかけることで、身近なところから「やさしい世界」を創っていけるかもしれない。いや、創っていくのだ。これは、実践であり努力なのだ。勝手にそうなるのではないのだから。

とは言え、これは勇気の必要なことでもある。
「まっさらな私」に気づき、すなおに認めるためには、自分を守ってくれていた「硬くて重たい鎧」を脱ぐことになるのだから。

怖い。傷つけられるかもしれない。そう思うのも、自然なことだ。
だからこそ、ひとりでも多くの人が、身軽でまっさらな私でいたいと望むことなのだ。

最後に、盛大な綺麗ごとを言おうと思う。

「みんなでやれば、怖くない!」

少しずつ、気づいた人から、気づいた時、やれそうな時に、やってみよう。

警戒しながら、恐れながら。
我先に、楽ちんになってしまおう。

そして「早くこっちにおいで」と、ガチガチに守りに入っている人を、安心させてあげよう。

すっぽんぽんになってから、少々かさばる「肩書き」「立場」「レッテル」を、ふんわりと身にまとってみると、そんなに重たくないはずだ。

むしろ、ちょっとばかりの重さが、心地よく感じられるかもしれない。
ちょっとばかりの重さが、ちょっぴり、自分を誇らしくさせてくれるかもしれない。