助け合いの世界のつくり方

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ひとりでも多くの人が、ひとりでも多くの人に対して、可能な限り「理解」というやさしい視線を向けることの必要性について、お伝えしてきました。

今回は、こちらの意義や捉え方について深めていきたいと思います。

がんばること、がんばらないこと、がんばってしまうこと

「がんばる」という言葉について、様々な解釈や意見が存在している。

ある人は「もうがんばっている人に対して、がんばれなんて言ったらダメよ」
ある人は「がんばらないと生きていけないからがんばるしかない」
またある人は「がんばらなくてもいいとは言われるけど、どうしたらいいのかわからない」

その人自身の捉え方や状況によって、これらは変わってくるように思う。
だから、一概に「こうしましょう」とは言えないと思っている。

「助け合いの世界」をつくるために、なぜ、この話が必要なのか?

今回は、三つ目に挙げた「がんばらなくてもいいとは言われるし、自分でもそう思うのだけれど、どうがんばってもがんばってしまう」というところに焦点を当て、具体的な話をしたい。

がんばりの方向性が、報われるものであってほしいという私なりの願いが込められている。
同時に、実践することで現実化すると信じている。

自然な流れで「理解を示す」を実践してくれている人たち

以前、「理不尽な力に対して『理解』という強大なパワーで包み込む」という話をしたが、今回はそれに肉付けしてこの先を話したいと思っている。
もしよろしければ、そちらを先にお読みいただきたい。

理解がもたらす許しの種
やさしい世界を創るために「理解」が必要であるという考えをお伝えしましたが、これは「許せないことを許せ」という意味ではありません。微妙な違いかもしれませんが、今回は「理解と許しの違い」について、私なりの解釈をお伝えします。傷つけられた怒りや悲...

「自分のことだけではなく、相手のことまで考えることが当たり前のように出来ている人が、背負うものが多くなってしまう現実」について、私なりの解釈を伝えた。

こういった人たちにとって、「自分勝手にふるまう」「人の気持ちを無視する」「理不尽に理不尽で対抗する」「細かいことを気にしない」というのは、かえって難しいこともあるのではないか。

しかしその結果、人のあれこれまで背負ってしまい、苦しくなってしまう。
本当は、自分勝手にふるまったり人の気持ちを無視したり、やり返したり細かいことを気にせずいられたら楽なのかもしれない。でも、それをすることの方が「がんばる」になってしまうこともあるように思う。

結局、どちらにしても、この人たちは「がんばってくれている」のだ。

不思議なことに、そういう人たちほど、自分の無力さを嘆いたり、自分の至らなさを反省したりする。なぜなのだろう。人のぶんまで、やってくれているのに。

ここで、ひとつの例を挙げて、これらの現象について説明したい。

環境を汚す人と、掃除に奮闘する人

誤解のないように、先にお伝えしたいことがある。

「汚す人」「掃除する人」
わかりやすいように、あえて二分化しているが、本当は、「どちらかだけ」ということはない。
ひとりの人間の中に、両方とも存在するものである。
また、状況や相手次第で、これらは変動する。

これらを踏まえた上で、あくまでも比喩表現と捉えてこの先をお読みいただきたい。

「自分さえよければいい」

こういった考え、態度、言動が、いわゆる「汚す人」の正体である。

自分の車、家、部屋が綺麗なら、他のことはどうでもいい。
平気な顔をして、ポイ捨てする。

ちゃんとゴミを分別することが面倒だから。
自分のテリトリーで処理しきれないものを、よそで簡単に処理できるから。

「みんな、やっているから」
そんな風に、ちょっとぐらいなら大丈夫だろうと思うことはないだろうか?

しかし「ゴミや汚れ」は、捨てられたまま存在している。

では、この「ゴミや汚れ」は、どうなるだろうか?

ある時は「そのままゴミや汚れが放置され、環境を蝕んでしまう」
ある時は「気づいた人が、ゴミを拾ったり汚れを掃除したりする」

お分かりだろうか?

これは、そっくりそのまま「心の世界」でも同じことが言えると思っている。

人間は、生きているだけで周りを汚していくものだ。
これは、「汚す人」「掃除する人」どちらにも当てはまる。
避けられない事実だ。

食べる、排泄する、あちこち動き回って生活する。

どうしても、どうがんばっても汚してしまう。
これはもう、どうしようもないことだ。

では、これらを「どうしようもない」と諦め、掃除せずに汚しっぱなしにしてしまうと、どうなるだろうか?これは想像に容易い。言うまでもないことだ。

今回は「ゴミや汚れ」という、比較的見えやすいもので例えてみたが、どうだろう。

「心は見えないものだから」と、怠慢になっていないだろうか?
見えないものなんかではない。あらゆるものの姿を借りて、見えているのだ。
見ようとすることだ。
見えないというのは、面倒なことをしたくない言い訳だと思っている。

面倒だからと言って、自分から出るゴミや汚れを「誰か」に押し付けていないだろうか?

この「面倒なこと」を、面倒なことと認識する前に自然とやってくれている人がいる。それが、「自分だけではない他者に対して、理解を向けることができる人たち」の正体である。

そして、こういった人たちは、時に「自分の掃除をそっちのけで、人の掃除に追われている」ことがある。自覚なしに、やっている時もあるかもしれない。

「言い聞かせる」という、不毛な努力

いくらこういった話をしても、お説教しても、言い聞かせても、「自分さえよければいい」と思う人にとっては、痛くも痒くもないちっぽけな言葉となってしまうのだろう。

だから、こういった話をすると、本当に伝えたい相手ではない人が過剰に受け取ってしまい、さらに苦しんでしまうという現象が起こる。やはり、理不尽極まりない。

だからこそ、あえて、この話をしたいと思っている。

それが「努力の方向性」について、改めて考えていこうということなのだ。

言い聞かせてもどうにもならないものに対して、言い聞かせてもどうにもならない疲労感。
どうにもならないから、これまで同様、人のぶんまでひたすら汚れたものを掃除し続ける苛立ち。
理不尽な想いに耐え切れずに掃除を投げ出す、掃除し続けることに疲れ切ってしまいギブアップする、その結果、汚れたままの環境で、嫌な想いをしながらどうにかやり過ごしてガマンする。

どの努力も、まっぴらごめんである。
少なくとも私は、どれも選びたくない。皆さんはどうだろうか?

では一体、どうすればいいのだろうか?
なにがあれば、この状況をひっくり返すことが出来るのだろうか?

がんばっても、がんばらなくても、どちらにしても苦しいなんて、そんなことを許していいのだろうか。

「許してはいけない」と、あえて強い口調でお伝えしたい。

自分たちの住む世界を自分たちで創っているという事実

「許さない」

「私たちの住む世界を汚すなんて、許せない」

そうやって立ち向かうことが、今、求められているように思う。
そして、立ち向かい方にも流儀がある。
それが「理解というやさしい武器を使う」ことなのである。

ここまで読んでくださっているかたにとっては耳にタコが出来る表現だが、あえて何度でも使いたい。
皮膚から、全身へ、浸透させてほしいと思っている。

「理解と許しは似ているようで違う」という考えを別の記事でお伝えしたが、こちらを思い出していただきたい。

許せないからこそ、理解を示すのだ。「許してはいけない」と、思っている。
しかし、許せないものを許せないと責め続けることは、新たな許せない現実を生むことになってしまうから。責めたい気持ちを抱えながら、物事の背景を想像し、できるだけ、可能な人が可能な限りで構わないから、責められている人に理解を示す必要がある。

なぜか?

様々な見方があるように思っているが、私は精神的、心理的な分野において、あれこれ言っているため、そういった方面で解釈をお伝えしたい。

見えないものが見えているものに乗り移って、表現されているもの。
心の傷が泣き叫びながら主張する、様々な問題や課題。

心身の病
誹謗中傷
様々な暴力行為
自分で命を絶つ人がいる事実
犯罪が横行している事実

これらを放っておくわけにはいかないのだ。

起こってしまったことに対してケアを行うことは、これまで同様、言うまでもなく必要なことで大切なことだ。しかし、起こってからでは遅すぎる。

SOSに気づき、適切にケアをして、心の傷が増産される前に「予防」することが必要だ。
だから、「許してはいけない」と強く思っている。

そして、「諦めてはいけない」と、強く思っている。

関わる人、目の前で起こっている出来事だけが、自分と関係していることだと思っている場合ではない。自分が思っていること、やっていること、やっていないこと、知らないこと、知っていること、こういったことすべてが同じ土俵のうえで、影響を与え合っている。
「世の中で起こっていること」「世の中の常識」に、間違いなく、自分は関与しているのだ。

しかし「自分が関与している」からと言って、必要以上に罪悪感や無力感を抱く必要はない。なぜなら、その「罪悪感」や「無力感」も、周囲に影響を与えているからである。

くれぐれも、この考えは「自分を追い詰めるためのものであってはならない」ということを忘れないでいただきたい。しんどい想いをする人を増やしても、やさしい世界にはならないからだ。

この考えは「自分には何が出来るだろうか?」と気づくことを促し、「自分たちの住む世界を自分たちで創るためのものとして扱ってほしい」から、お伝えしているのだとご理解いただきたい。

辛い現実を、やさしい世界へひっくり返すための具体的な方法

ここで、やっと「具体的な努力の方向性」の話に突入する。

世の中で起こっていることに自分が関与していると認識した後、自分には何が出来るだろうかと思えた後、この話をする必要があった。

なぜなら、頭で理解したことを心を通さずに行うと「べき論」になってしまうからだ。
べき論は、自分や周りをしんどくさせてしまうと考えている。

繰り返しになるが、私の目的は「やさしい世界を創る」ことであって「しんどい想いをする人を増やす」ことでは決してない。しつこいと思われても、何度でも言おう。

では、本題に入ろうと思う。

少し前に、やるせない努力や不毛な努力の話をしたが、あなたはどう思っただろうか。
様々な感想があると予想されるが、多くは「思わず気だるいため息をつきたくなるような、どうしようもなさ」を伴う、うんざりとした嫌な気持ちを味わったことだろう。

そんなあなたの心をスッキリさせ、うんざり気分を吹き飛ばしたい。
これからお伝えする「努力」とは、もっともっと「建設的で気持ちのいい努力」なのだ。

しっかりと意味があって、安全で、取り組んでいる自分自身も心が晴れやかになる努力。
見返りを求めてしまうのが人間の性だけれど、それすらも超越する「笑顔が増える努力」。

「がんばらなければ」「がんばりたくない」「がんばるってなに?」

こんな風に苦しく思ってしまうものに対して、答えになる要素も、もしかしたら含まれているかもしれない。

その答えとなる考えについて、順を追って説明したい。

自らすすんでお掃除したくなる人を増産しよう

「汚れている場所は、少々汚れても構わないだろう」

正直なところ、こんな風に思ってしまうことはないだろうか?
もちろん、そうではない人もいるだろうが。

「綺麗な場所では、汚れが目立ってしまう」

こんな風に思ったことは、ないだろうか?

綺麗とか汚いとか、良いとか悪いとか、そういったことはさておき、次のようなことが身近で起こっていないだろうか?少し、考えてみてほしい。

「悪口ばかり言っている人たちの集団」で、少々悪口を言っても気にならないかもしれない。しかし、「自然と助け合っている人たちの集団」で、悪口を言っている人は非常に目立つ。
もちろん、その逆も然り。

「いつ叩かれてもおかしくない環境下で、自分の意見を主張することの不安や恐怖」
「幸せを表現することや自分を認めてもらうこと、綺麗ごとを望むこと、これらを諦めてしまっている人が多い環境下で、笑顔でいることや希望を語ることの居心地の悪さや窮屈さ」

これらは、各々のコミュニティで確認される現象であるが、もう少し、規模を大きくとらえていただきたい。

「世の中全体で、今は、どちら側に傾いているのだろうか?」と。
一度立ち止まって考える必要があるように思っている。

そして、「私は、どちら側に立つことが多いだろうか?」と、自分の胸に手を当てて感じてみてほしい。ジャッジせずに、ただ、感じてみることだ。

さらに、「なぜ、私は、そちら側に立つことになったのだろう?」と、自分に対して理解の姿勢を持ちながら、考えてみてほしいのだ。

「本当は、何を望んでいるのだろう?」と、生まれたての素直な気持ちを感じてみてほしいのだ。

諦めたくなる気持ち、上手く表現できない気持ち、やるせない気持ち、遠慮する気持ち、その奥にある「本当のところ」は、どうなのだろう。

こういった働きかけは、誰かに対して行うものでもあるし、同時に「自分自身に対する、心からの問いかけ」なのである。

頭で考えたことではない。真心をこめて問いかけ、率直に感じることなのだ。

自分は、どんな世界で生きていたいのか?

これが、「自分からすすんでお掃除したくなる人を増産するための努力」の、本質的な部分である。

ここまで読んでくださったかたには、きっと伝わっていると信じているが、「綺麗ごととは綺麗ごとではない」のである。非常に、現実的な努力なのだ。
つまり、現実的に取り組めば実現可能だと捉えている。

それはわかった。でも、具体的に、何をすればいいの?と、思っているかたがいるかもしれない。

世の中で起こっていること、世の中の常識、これらに「私」ひとりが立ち向かうなんて、到底考えることが出来ないと、もしかしたら思うかもしれない。

汚れまくっている世界を、「私」ひとりで綺麗にするなんて、到底無理なことだと、諦めたくなってしまうかもしれない。

そんなあなたに、朗報がある。
「なにをすればいいのか?」私なりの答えは、次のようなことである。

「私」という存在は「みんな」の一部ということだ。
だから、「私」が、そうであるだけでいい。

まずは、それでいいのだと思っている。

みんなが「私」のことを綺麗に保ちたいと心から望み、たとえ小さなことと思えることでも実践していくことで、「みんな」が住みやすい世界へ緩やかに移行するのだと思っている。

完璧を求めたり、ハードルが高くなると、やりたくなくなってしまうのも人間の性である。
出来るところだけでいい、出来ない時があってもいい、少しずつ、一歩一歩…
そんな風に、小さく嚙み砕いて物事を捉えたり、少しずつ飲み込んだほうが、消化もしやすい。

地道に、コツコツと理解を重ねていくことが、結果的に大きな波を創ることになるのだ。

ちなみに、この「実践」というのも、大きくとらえる必要はないと思っている。
なにかをするばかりが「実践」ではないからだ。
ただ「素直な気持ちを感じて、それを心の中で望むこと」も、大きな実践なのである。

「心を大切にできる人」を、ひとりでも多く増やすための実践。
綺麗に掃除することがまるで当たり前の状況になれば、嫌な気持ちをポイ捨てしたり誰かに押し付ける人が、恥ずかしくていたたまれない気持ちになる。
居心地が悪いことや、不快なことを避けたくなるのも、これまた人間の性なのだ。

そして、さらに一歩、進んだところへ行くために。

何度も何度も、しつこくお伝えしていることだが、理解というやさしい武器をつかうことだ。
力づくや身勝手という理不尽なパワーを「戦意喪失させること」が求められている。
理解されたと感じた人間は、自然と自らを省みるのである。

「もう、自分や誰かをむやみに傷つけること、やめたい」「こんなことをしたって、辛いだけだ」
そう思ってしまうようになることを、促すのである。

「自分だって本当は、やさしくて綺麗な世界で生きたかったんだ」
このように思えたなら、もう、白旗を挙げたようなものだ。
やさしい世界で生きる人たちの仲間入りをした瞬間である。

できることなら、この瞬間に「許し」を共有したい。
歓迎できることなら、歓迎したい。可能な限りで、構わないから。

「ダメだと言われたからやめる」よりも、「やりたくないからやめる」ほうが、本当にやめる人が多いように思っている。

がんばる方向性とは、まさに、こういったことである。

押し付け合いの世界から、助け合いの世界へ

ひとりでも多くの人が、自分が住む世界を綺麗に保ちたいと望むことが出来る。
すると、顔をしかめながら、人のぶんまでお掃除する必要もなくなってくる。

そのうえで、自分のことだけではなく、「お互いに」相手や、とりまく環境のことにも目を向けることが出来るようになる。

お互いに、困った時は、人のぶんまで自ら進んで、お掃除を「手伝う」のだ。

すると、結果的に、多くの人が楽に過ごせるようになると信じている。
今は、そのプロセスの中にいるのだ。

私のこの活動も、小さな波のひとつである。
でも、やらないよりはマシなのである。
だからやるのである。

ひとりでも多くの人が、この活動に理解や共感を示してくださることを願って。