理解がもたらす許しの種

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やさしい世界を創るために「理解」が必要であるという考えをお伝えしましたが、これは「許せないことを許せ」という意味ではありません。

微妙な違いかもしれませんが、今回は「理解と許しの違い」について、私なりの解釈をお伝えします。

傷つけられた怒りや悲しみの現れ方

私自身、これまでに様々な心の傷を負いながら生きてきた。

身近な人との辛い体験、よく知らない人に突然暴言を吐かれたこと、不穏な雰囲気の職場、学校での嫌がらせ、理不尽なことを言い争っている社会。

傷つけられる対象というのは、必ずしも他者からだけではない。
自分自身によるものも含まれている。

どうにもできなかった自分を自分で責めて、追い詰めた。
どうしてこんなことも出来ないのかと、自分で自分をいじめたこともある。

それらが複雑に絡み合い、こじらせ、様々な形で心の傷が表出する。
私の場合は、強迫性障害がひとつの症状として表れたのだと思う。

心の傷の現れ方は、人によって様々であると思っている。

ある人は、自分を責める方向へ行き
ある人は、他者を責める方向へ行く。

心理学では、こういったことを「自罰」とか「他罰」とかいう。

またこれらは、どちらか片方だけが現れるのではないと思っている。
自罰する人は、知らず知らずのうちに他者を罰していることもあるのではないだろうか。

私の例を挙げよう。
自分が悪い!と言いながら、自分が悪いと言わせてきた人を責めたことが多々ある。
自分を責めてきたものに対し、罪悪感を抱かせるという方法で復讐しているのだ。
これは、自覚なくやっている人もいるように思っている。

また、他者を責める人というのは、本人の自覚のあるなしに関わらず、自分を責めていることも多い。

「どうしてお前はこんなことも出来ないんだ!」

そうやって、相手を責めているように見えるが、本質的には「どうして自分はこんなことも出来ないんだ」と、自分に鞭を打っているとも考えられるのである。

わかりにくい「SOS」のサイン

このように「誰かに傷を負わせたい」という心そのものが、言うなれば健全な状態ではないということは想像に容易い。

「助けてほしい」と声をあげたり、今この瞬間も痛めつけられている人のSOSにさえ、なかなか手を伸ばし合うことが厳しい現状があるように思っているが、こういった「誰かを責めたり傷つける」ことで表される「助けてほしいの合図」に気づくことは、さらに困難なことであると思っている。

「誰かを責めたり傷つける人」というのは、悪者だと認知されているからだ。

実際、誰かを責めたり傷つけるようなことを言ったりやったりすると、その影響で責められ、傷つけられる人が現れる。悲しみや苦しみ、しんどい想いを背負う人が増えてしまう。だから、「それはいけないことだ!」と罰したくなるのも当然のことなのだろう。私も同感である。

理不尽に傷つけられてしまった人の苦しみは、想像という概念に値しないほどの辛さがあると想像している。第三者があれこれ言えるような立場ではないと思っているし、共感することすら相手を傷つけてしまうことがあるかもしれない。大変に、繊細なことだと思う。

そういった大前提があるうえで、この話をさせていただきたい。
聞きたくない人は無視してもらっても構わない。

私やあなたを苦しめた憎き「悪者」も、もしかすると、誰かに何かに、ひどく傷つけられた人なのかもしれないということなのだ。受け容れられるかどうかは、対象者や状況によって様々であると想像するが、これは、事実なのだと思っている。

傷を負っているからこそ、新たな傷を生まないことが必要

私も含め、この世の中にいる人は様々な傷を負っている。
傷を負わされたら、当然のごとく、怒りも湧いてくるだろう。

「なぜ、私がこんな目に遭わないといけないのだろう」
「どうしてこんなにも理不尽なことに曝されているのだろう」
「私が一体、何をしたというのだろう」

怒りを通り越して、憎しみが湧いてくるような気持ちになるかもしれない。
それも自然な心の働きといえる。誰だって、嫌なことをされたら嫌な気持ちになる。

では、この「持て余すほどの怒り」を、一体どのように扱えばいいのだろうか。
ここで、ある選択肢が現れる。

一つ目は、嫌な気持ちをなかったことにして、どうにか平常心を保とうとすること。
二つ目は、嫌な気持ちを感じるままに相手にぶつけ返して攻撃すること。

あくまでも私の考えだが、どちらもオススメできない。
両方、やってみた感想である。

嫌な気持ちをなかったことにすることは出来ない。
それなのに、嫌な気持ちに蓋をすると、どうなるか?
嫌な気持ちがどんどん熟成されて、自分の見えないところで色を変え形を変え、ある時は成長してしまうかもしれない。自分のものなのに自分の見えない場所に保管しているから、まるで自分のものではないように感じてしまう。
いくら平常心を装っても、隠しきれない想いは知らず知らずのうちに自分を蝕み、相手への見えにくい敵意となって存在したままになる。

では、むかついたまま相手にぶつけ返すと、どうなるだろうか?
一時はスッキリした気持ちになる。少なくとも、先ほどお伝えした後味の悪さは感じずに済むだろう。しかし、感情のまま相手を罵ることは、ばつの悪さを感じさせる。嫌な気持ちを発散させたいと思って行った試みによって、嫌な気持ちを感じているのだ。そして、それは自分だけではなく、相手にも影響を与える。嫌なループを招いてしまう。

これらは、両者とも「笑顔をつくらない」選択なのである。
では、どうしたらいいのか?

様々な見解があるように思うが、あくまでも私の活動方針である「やさしい世界を創る」ことを基準にした回答をお伝えしたい。

また、見てくれている人の状況によっては、「そんなことを言ってられない」と感じる人もいるだろう。そう思うのも当然のことだと思っている。当事者同士での苦しみを、一歩離れたところから見ることは難しいし酷なことだと想像できるからだ。

だから、これをお伝えしたい対象は「第三者の人」であると言えるかもしれない。
世の中で起こっている苦しみ、悲しみを生む出来事を様々なかたちで目の当たりにした時に、思い出してほしいと願うことがある。それが、次のようなことだ。

「怒りを感じたまま、許せないまま、起こった出来事の背景を想像し、理解を示すこと」

この、第三の選択肢を推奨したいと思っている。
これは「誰かのため」という、綺麗ごとなんかではない。
「自分のため」「自分たちのため」に行う試みなのである。

「理不尽という暴君」に、土足で踏み込ませないために

私は、正直なところ、理不尽なものに対する怒りを感じながらこの活動を行っている。

「理不尽」にも色々あるのだが、なかでも「自分のことだけではなく周りのことを考えて生きている人間が追い詰められ、損をしている気がする」という想いは、なかなかに強い。

全ての人に当てはまらないとは思うが、他者との関わりによって心の傷を抱え、自分を責め、自分が良くないものだと思い、社会に迷惑をかけている気がすると感じてしまう人が、心を痛めてしまうことが多いように思っている。

本当は、自分のことで精一杯なのかもしれないのに。
他者の迷惑や気持ちを考え、人のぶんまで問題を抱え込み、悩み、場合によっては、自分はいない方がいいとまで思ってしまうこともあるのではないだろうか。

そんな心やさしい人たちこそ、追い詰められてしまうのは、どうしてなのだろう。

そんな人たちの気持ちを考え、配慮し、やさしさを示してくれる人はもちろんいる。
しかし、残念ながら、そうではない人もいる。

言い返さないのをいいことに、好き放題に罵って平気で心を傷つける人。
共感姿勢をしめされたことをいいことに、自分の都合のいいようにコントロールしようとする人。

言い返さないのは、どうしてなのかと想像したことがあるのだろうか?
なぜ、人に対して共感姿勢を見せるのか、考えたことはあるのだろうか?

理不尽な相手のことも、人として扱い、やさしさを示すことが、そんなに理解できないことなのだろうか?それを、当たり前のようにやってくれている人たちが、結果的に辛い想いをすることが多いように思っている。

そして、そんな人にこそ、このお話を聴いてほしいと思っている。

これからお伝えすることは、まるで、オセロの黒を白にひっくり返す作戦に近いものを感じている。
黒とか白というのは、あくまでも例え話なので簡単に受け取ってほしい。

私は基本的に、正義とか悪とか、善いとか悪いとか、白か黒かとか、そういったジャッジをするためにこの活動を行っているのではないことを、しつこくお伝えしたい。そんなことをしても、やさしい気持ちは生まれないからだ。意味がないと思っている。

そのうえで、オセロの白黒の話をしたい。

オセロをひっくり返せ!作戦

今、この世の中では「言ったもの勝ち」「強く出たもの勝ち」「パワーを誇示したもの勝ち」という事実があるように思っている。

「お客様だから、店員やカスタマーセンターに暴言を浴びせながらクレームをつけても許されるだろう」
「上司だから、部下に言うことを聞かせるために力づくでコントロールしても許されるだろう」
「配偶者だから、養育者だから、教育するために、怖がらせたり脅すことも許されるだろう」

そうやって各々の正義を正当化し、人の心を傷つけることを正当化し、「自分は悪くない」と言わんばかりの態度で当たり散らしている。その言動が、相手に、世界に、自分に、どのような影響を与えるかを、考えたことはあるのだろうか。

そして、そういう人こそ「あなたのためを思って」という言葉を使う。
商品やサービスがもっと良くなるように、教育の一環で…
求めていないことかもしれないのに、だ。

さらに、そういったことに心を痛める人ほど、暴力的な言い訳に共感したり、自分が悪いのかも…と真面目に受け取って反省する。力に屈してしまい、結果的に言いなりになってしまう。
本当は、迷惑しているのに。本当は、コントロールされて苛立っているのに。理不尽なのに。

腹が立たないだろうか。なぜ、私が言いなりにならないといけないのだろうかと。
肩書きとか立場とか、レッテルとか、関係なく、暴言を浴びせられたり理不尽なコントロール下に置かれたりするのは、傷つかないだろうか?嫌な気持ちにならないだろうか?

なるに決まっている。当たり前だ。人の心は繊細なのだから、すぐに傷ついてしまうから。

では、この「力づく」という理不尽なパワーに対して、どのように対応するのが望ましいのだろうか?
結論から言うと、これが「オセロをひっくり返せ!作戦」だ。

力づくではない方法で、自分たちが住みやすい世界へ状況をひっくり返すのである。
もちろん、「自分たち」には「理不尽な人たち」も含まれている。

理不尽な人たちは、理不尽な現実に苦しんでいることがあるかもしれないから。
みんなで、住みやすい世界へ移行するのだ。
すると、理不尽なことに苦しむ人が少なくなると信じている。

この方法を実践すれば、次のようなことが得られると思っている。

「理不尽なものに理解を示すというやさしい試みが、力づくというパワーを上回り、『相手を思いやる』文化の定着につながる」
「相手のことまで考えられる人が多いという常識が、やさしい世界の循環に大きく寄与する」
「黒でしか生きられないと思い込んでいた人が、自分の白を当たり前のように見ることが出来る」
「白と黒が共存し、いがみ合いの世界から助け合いの世界に移行する」

別の表現をするならば、「いつもトイレを綺麗に使ってくださってありがとうございます作戦」とでも言えようか。または「綺麗なお部屋は綺麗に保ちたくなる作戦」でも、いいかもしれない。

つまり、そういうことである。

「力づく」を「理解」で包み込むパワーの偉大さ

具体的な話をしたいと思うが、その前に伝えておきたいことがある。

今、危ない目に遭っている人、追い詰められてしまっている人は、とにかく、その状況を脱することを考えてほしいのだ。今から話すことを真に受けずに、自分の身を守ることを最優先に考えてほしい。

私は、この「オセロをひっくり返せ!作戦」が世界の常識になってほしいと願っているし、これを実践できる環境を整えたいと思って、こういった話をしている。つまり、結果を先に求めているのではないということだ。

今もそのプロセスのなかにいるし、当然、そのプロセスに乗れる状況の人と、それどころではない状況の人がいると理解している。様々な人が見ている媒体だから、全ての人に当てはまる表現をすることはどうしても難しいことなのだ。それを踏まえたうえで、この先を読み進めてほしい。

逃げることは、逃げることではない。立ち向かっているのだ。
だから、安心して逃げてほしい。生きながら、生きるために、逃げてほしい。

それでは、話を進めていこうと思う。

少し前に、「わかりにくいSOS」の話をしたが、思い返してみてほしい。

シンプルにお伝えすると、力づくで支配下に置こうとする人は、かなり不器用なやり方で「助けてほしいと訴えている」とも、受け取れる。

ここからの話は、あくまでも推測の域を出ないし、人や状況によって様々なパターンがあるから、参考程度に受け取ってもらいたい。この話の目的は「相手を理解しようとするための試み」である。

力づくで支配下に置きたがる人というのは、過去に、力づくで支配下に置かれていた人の可能性がある。その強大な力に屈し、逆らうことが出来ず、心の傷が増え続けながらも適切にケアすることができないまま、今に至っているのかもしれない。

また、そういうやり方でしか、人と関係を築くことが出来ないと思ってしまった人なのかもしれない。もしこれが、近しい養育者との間で起こったことだとしたら、どうだろう。いくらその行為に傷ついてきたとしても、これこそが「愛情のかたち」と受け取らないと、やってられなかったのかもしれない。

一つの例を挙げたが、どうだろうか。
こういった辛い事情が潜んでいることも大いに考えられるため、見えているものだけに惑わされている場合ではないのだと思っている。だから「わかりにくいSOS」に、いちはやく気づくことが求められていると強く感じる。

先ほど「自分のことだけではなく、周りの人のことまで考えられる人が損をしているように感じる」話をしたが、まさに、ここで活躍できるのが、私であり、あなたなのである。

理不尽に屈するしかないと嘆き、心の傷を持て余し、途方に暮れている私でありあなたが、「理解」という偉大なパワーを発揮できる人なのである。この力が、求められている。損なんかではない。やさしい世界を創るための勇者なのである。大勝ちである。今こそ、ひっくり返すときが来たと思っている。

「お前はダメな人間だ!」と言われたら「あなたは、自分のことをダメな人間だと思って悲しんでいるのね」と、攻撃の裏側にある辛さを想像する。
「どうして言うことを聞かない!」と罵られたら「あなたは、自分の意に反して誰かの言いなりにならざるを得なかった過去があって、ひどく傷ついているのね」と、言うことを聞かせたい理由を想像する。

こんな風に、「暴言」を「SOS」に変換するのである。
そして「あなたも私も、傷つきを持て余しているのね」と、知るだけでいい。
知ったことは、自然と言動に反映されるからだ。

事実は、確認できそうなら確認したらいいし、確認できなければそれでもいい。
大切なのは、痛みを想像することであって、事実ではないからだ。

理不尽な力に、理不尽な力で対抗するのでもない。
理不尽な力に抗えず、屈するのでもない。
「理不尽を理解で包み込むやさしさ」という、強大なパワーを発揮するのだ。

ここまで読んでくださったあなたはお気づきだと思うが、念のためにお伝えしたいことがある。
この試みは「あなたは可哀そうな人ね」と残念がることとは全くの別物だ。見下すことと理解を示すことは、相容れないものだから。「あなたも辛かったのね」と、労う行為に近い。

理解されたと感じた人間は、どうなるだろうか。
なんだか、肩の力が抜けてしまって、訳が分からなくなるかもしれない。
なんのために、噛みついてこなければいけなかったのかと自身を振り返り、これまでの行いを、恥じるかもしれない。
罪悪感に打ちひしがれるかもしれない。

そして、その過程を経て、傷が癒されていくのだ。
ひとりの傷が癒されると、新たな傷を生まない方向に転じていく。
これをやっていきたいのだ。

もちろん、繰り返しになるが、これは「許せ」という話ではない。
自分や、自分の大切な人が理不尽に傷つけられるなんて、許せるはずがない。一生許せなくてもいいと私は思っている。むしろ、許せない自分を許してあげることの方が大切だ。
そのうえで、新たな傷に曝されないために、自分や大切な人を守るために、理解というやさしい武器を使うのだ。

白と黒の共存がもたらす、平和的解決への道

理不尽なものに対して、許せないままに理解を示すことで得られるものについてお伝えしたが、いかがだっただろうか?

まだ、モヤモヤしたものがあるかもしれない。しかし、それでいいのだと思う。私もそうだ。

モヤモヤしながら取り組めばいい。完璧を目指す必要はない。
ひとつずつ、目の前で起こることに対して、あらゆる側面で物事を捉えていくだけでいい。
上手くできなくてもいい、失敗してもいい、やりたくない日があってもいい。
絶対やりたくないと思いながらも、ここでの話が頭をかすめる程度でも構わない。

完璧ではないものたちが寄り集まって出来ている、ひとつの世界だから。
自分もあの人もこの人も、どうしようもない人間なのである。
どうしようもないなりに、どうにかしようとするのである。

まさにそれが、白と黒の共存であるように思っている。
なにも「白い人間」と「黒い人間」という例え話だけではない。

ひとりの人間のなかに、白も黒も存在しているのだから。

つまり、ただ、自己に存在している両極端なもの、受け容れやすいものと受け入れ難いもの、それらをよく見てあげることなのだ。なるほど、まるで球体のようだと思えたら、しめたものである。

醜い自分、面倒くさい自分、攻撃的な自分、希望を失わない自分、愛されたい自分、愛したい自分、愛されたかった自分。大好きな自分、大嫌いな自分。

そういった自己理解が、結果的に他者理解へとつながるのだと思っている。

そして、なるべく、多くの人が安心して笑っていられる世界を望んでいたいと思っているし、そのように思ってくれる人がひとりでも多く存在していてほしいと願うばかりである。また、それに気づくことができるような体制を、気づいた人から整えていくことが求められているように思っている。

許しとは、試みではなく結果的にもたらされるもの

「許しましょう」

誰かから、そのように言われたことがあるかもしれない。
SNSなどで、見かけたことがあるかもしれない。

「許すことで、自分が救われる」

そんなことはわかっている。
それが難しいから、許せないから、困っているのだ。

自分の心の傷を、許せないほどの想いを、他者から「許せ」と押し付けられることが、許しがたいことだ。私はそのように思っている。

しかし「許せると楽になるからね」と、許せない想いを持て余している人たちに対して、少しでも楽になる方法を提示したいという想いで、発信したり言葉をかけてくれている人も多いのだと理解している。

理解とは、自分に向けられたやさしさを見つける側面も、あるのかもしれない。

理解とは努力であり、実践である。
許しとは、その結果、自然ともたらされるものである。

私はそんな風に思っている。

やさしい世界を創る第一歩として、自分や他者へ「理解を示す」ことの必要性や、その恩恵について、理解が深まるような発信をこれからも続けていきたい。