今の世の中に必要なもの

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私は綺麗ごとの世界で生きてきたわけではないという話をしましたが、綺麗ごとは好きでも嫌いでもありません。ただ、必要なことだと捉えています。

「こうであるべきだ」「こうしたほうがいい」

巷であふれかえる、そういった言葉たちを見ては、そうできたらいいだろうなとか、そうできていたらこんなに悩んでいないとか、そんな風に思ってしまいます。

「それができないから困っている」

これが真実であると私は考えています。
にもかかわらず、私は綺麗ごとを主張している。
そのあたりの動機や経緯を説明したいと思います。

「こうあるべき」という魔物

SNSやテレビ、身近で起こっていることでよく見かける光景として、「どうにもならないものを、力づくでどうにかさせようとする試み」が横行しているように感じる。

「ここでは謝るべきなのに、どうしてそうしないの?」
「感謝の心がないのか!」
「親なのに、子どもなのに、先生なのに、病気なのに…」

人の数だけ、人の正義が存在している。
それが、自分や周りを縛る鎖になっていないだろうか?
自分や周りを傷つけるナイフになっていないだろうか?

どうにもならないものをどうにかさせようと躍起になることが、当たり前になっていないだろうか?
自分自身に対して、身近な人に対して、社会で起こっていることに対して。

いわゆる、問題行動と捉えられる言動や、自分では理解しがたい物事の背景を想像したことはあるだろうか?見えているものに、振り回されていないだろうか?

私は一体、何に、振り回されているのか、感じたことはあるだろうか?
この人は一体、何に、振り回されているのかと考えたことはあるだろうか?

見えないものを見ようとする試み

ここで、あえて「見えないもの」と表現したが、私は、人の心や価値観などの形がないものに対して「見えないもの」とは思っていない。見えるものだと思っている。

ただ、知らないから見えていないのかもしれない。
見えないと決めつけているから、見ようとしていないから見えていないのかもしれない。

「知らないから見えないもの」の、例を挙げたい。
ある専門職の人が、どんなことに注意を払っていて、それに対してどれだけの難しさを感じていて、そのうえで、専門家としての仕事を全うしている。私には到底わからないことである。
これも自然なことと捉えている。そこに価値があるからだ。
「見える人には見えるもの」は、確かにあるのだと思う。

今お伝えしたいのは、いわゆる「知識や教養」の話ではなく、もっと、「普遍的なものを見ようとする力」が求められているのではないか?ということだ。

専門的な知識は持っている人と持っていない人が存在しているが、人の心は皆、平等に持っているもの。だから、わからないことはありながらも、その人自身の信念や想いにふれていくことは可能だと思っている。

これがいわゆる、自分の知らないものや考え、価値観、想いに対する「想像力」であったり「理解を示す」ことであるように思っている。

「この人は、どんなことに困っていて、どんなことに喜びを感じていて、どんなことで大変な想いをして、どんな風に自分の人生を生きているんだろう」

そのように「見ようとする」ことで、見えないと思っていたものが見えるようになることもあるかもしれない。もちろん、「わかった気になる」とは別物なのだが。

わかった気にならないためには、実際に、本人に尋ねてみることだと思う。
これが、「歩み寄り」という言葉の正体かもしれない。

「どうして、これをしようと思ったの?」
「これには、どんな意味があるの?」

自分以外の価値観や想いにふれた時に、私は、あの人は、どんな反応をするだろうか?

反応や情報を、どのように扱うかの重要性

「反応」という言葉を使ったが、こちらについて説明していきたい。
そこで、人間がある言動を起こすまでの過程を「3ステップ」に分けてみようと思う。

ステップ1とは、自然と湧いてくる感情的な反応と、捉えていただきたい。
つまり、嬉しいとか、嫌だとか受け付けないとか、気持ち悪いなどの、快不快を表す部分である。

ステップ2は、自然と湧いてきた反応をどのように捉え、処理するかを決める部分である。
心理学では「認知」であるとか、よく使われる表現として「色メガネ」と言われているものであるように思う。

そして、これらの過程を通ってきたものが、ステップ3の「言動」として表れる。

このなかで、私が注目しているのが「ステップ2」なのである。
私の活動の目的は、ここにあるといっても過言ではない。

「自分以外の価値観や想いにふれた時、私は、あの人は、どんな反応をするだろうか?」

このように問いかけたが、「綺麗ごとの世界」に必要な要素はステップ2にあると考えている。

不快な感情と綺麗ごとは共存できるか?

自身の生い立ちからも、1ステップ目で湧いてきた「素直な感情さん」を抑え込むのは、まったくおススメできるものではないことを、初めにお伝えしたい。

まるで、自分が自分ではなくなってしまうような感覚になってしまう。
シンプルに、しんどいだけである。

だから、まず、このステップ1を見てあげる必要がある。
ここをすっ飛ばして、いきなりステップ2に行くのは、まるで「自分を置いてけぼり」にしているようで、辛いことなのだ。たっぷりと寄り添ってあげてほしいし、必要なら、第三者の手を借りてほしい。

そのうえで、2ステップ目の話をする。
やさしい世界という、綺麗ごとの世界を創るために欠かせないものである。

人の発言、人の行動によって、怒りが湧いたり嫌な気持ちになることは、人の心を持っていれば誰にでもあることだ。では、その不快な感情を、私やあの人は、どのように扱い、処理するだろうか?

ある人は、自分の感情のまま、周りに当たり散らすかもしれない。
ある人は、面倒なことに巻き込まれたくないから、この人に言ってもどうせ聞かないから、私の話はどうせ聞いてもらえないから、黙っているかもしれない。
ある人は、理路整然と相手をまくし立て、正義の剣を振りかざすかもしれない。

私の考えでは、これらを行っている以上「やさしい世界」からは遠ざかってしまうと思っている。

そもそも、やさしい世界とは、誰にとって、何にとってやさしい世界なのだろうか?

様々な見解があるように思うが、私の考えるやさしい世界とは「自分もあなたも含めた全体にとって安心、安全、支え合うことが出来る温かみのある世界」を指している。

これらを目標として捉えた時に、私にとっての正解はこうだ。
ステップ2で必要なものとは、ここに来るまでにもさんざんお伝えしてきた、「理解」なのである。

もちろん、理解とは、他者に向けられるものばかりではなく、自己理解も含まれている。
どちらかだけではない。どちらも大事なのだ。そしてそれが、めぐり巡って自分に還ってくる。

ここで「自分の想いや言動が自分に還ってくる」という、よく耳にする言葉が出た。
私なりの解釈では、つまり、こういうことである。

自分も全体の一部だから、自分が物事に対して受け取ることやその結果現れる言動が、世界に反映されて影響を与えている。そして、自分もその世界の住人のひとりだから、全体にまいた種が自分に影響を与える。それが、自分を喜ばせたり、悩ませたりする。そしてまたそれが、周りに影響を与え、循環していくのである。

だから、自分に存在している不快な感情を受容しながらも、その扱い方を考えていく必要があるように思っている。しかし、これは努力目標と言えるものであって、言葉にすることは簡単でも実際には障害がつきものだ。そのため、これを読んでくださっている皆さんの力が必要なのである。

「みんなで、自分たちの住む世界を創っているんだ」と自覚すること。

「私は、どんな世界で生きていたいのか?」と、素直な気持ちに気づき、欲しいものにまっすぐ手を伸ばすこと。

改めて、考え、感じていこう。「常識」「当たり前」という、大きな力に抗おう。

どうしようもないことを受け容れ、どうしようもないことに抗うこと

人は、どうしようもない生き物だと思っている。
もちろん、それには私も含まれている。

どうしようもないものを、どうにかできることばかりではない。

なぜ、人は傷つけあってしまうのか?
なぜ、人は自分のことしか考えないのか?
なぜ、人は人のことを追い詰めてしまうのか?

本当に、どうしようもないのである。
それが人間だから。心を持っているから。
傷つくことは避けられないのかもしれない。

だが、どうしようもないものをどうしようもないと受け容れ、そのままにしていると、心の傷がどんどん増えてしまう。見過ごすわけにはいかない。

これは、いわゆる「べき論」ではない。
実際に、私はこういったことに疲れ果て、何度も人生を辞めたくなった人間だから、こんなことを言っている。シンプルに「困っているからやめたいし、やめてほしい」と思っているのである。

「もう、やみくもに心の傷を増やすこと、やめませんか?」という、心からの願いである。

傷つくことが当たり前になっていないだろうか?
傷つけることは仕方ないと割り切っていないだろうか?

「自己主張」と「傷つけること」が、一緒のものとして扱われていないだろうか?

これらはまったくの別物だ。そして分けることが難しくもある。
だからこそ、これをやることに、大きな意味があると思っている。
ひとりでも多くの人が、自他ともの心に寄り添い、やさしい目を向けることが出来るように、ひとりでも多くの人が、これに取り組むことが必要だ。

傷つけることを正当化したり、傷つけられていることを許してはいけない。
だが、傷は生まれてしまう。それに、ひたすらに、抗うのだ。

「自分の素直な感情を受容する」「綺麗ごとを望む」
これらは共存できると信じている。信じていることは「できること」になると、信じている。